()内は可変
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工夫と不謹慎のグラデーション、あるいはAD-LIVE2020 無観客公演の可能性を考えてしまうこと

日本どころか世界中が揺れるさなかであります。
当然私も、そしてあなたも、この圧倒的な危難とは無関係でなく、不安になったり、楽しみにしていたものがなくなってしまったり、そもそもご自分の生活にだって大きな影響が出ていることでしょう。おつかれさまです。たいへんですよね…。

身体も心もどうにも休まらず、でもやれることと言えば極力ひきこもるぐらいで、そうしてひきこもっていれば春の日差しはうららかで、家の中にいるばかりでは暇も感じますし、となれば、外のエマージェンシー具合と、目の前に広がる閑散とした風景の落差が身に迫ったり、あるいは身に迫らな過ぎて実感がどうにも伴わなかったりするのではないでしょうか。

あるいは、まさに危難の渦中に呑まれ、ご自分の仕事がまさにこの緊急時に対応するために忙しくなった方も、お読みになっている方の中にはおられるのでしょうか。頭が下がります。今、まさに働いている方々は、社会の最前線でこの危難に立ち向かっている方です。あなたが支えているものはとても尊いものであると、私はよく知っているつもりです。本当にありがとうございます。


その苦労の重さや形に個々人差はあれど、なんにせよ私たちはそれぞれに日々、毎日をつむいでいかねばなりません。ご飯は食べねばならないし、トイレにも当然行くし、できればマスクは欲しい。そして、毎日をつむいでいくためには、精神の余裕、豊かさ、美味しいものが美味しかったり、楽しいものが楽しかったりすることもやっぱり必要です。延々とふさぎ込んでいるばかりではとても持ちませんから。

さらには、もしもできるならば、その「毎日をつむぐ」ことが、自分たちの好きなあれこれ、あちらこちらにも巡るようにありたいものです。極力なじみの店で食事をテイクアウトしてみたり、支援を求めるゲームセンターに投げ銭したり、こんな時だからこそ通販ででも買い物をしたりも。

私も、「お互いが生み出すものをやり取りしながら生きていく」ということを、あらためて見つめています。日々のスタイルを切り替えたからこそ、今まで自然に支援できていたことも積極的にならないと維持できなかったり、あえて立ち向かったりしないといけない部分は出てくるし、あるいは、切り替えたからこそ生まれる新たな何かの予感も、実はやっぱりあったりするのだと思います。

今回の一件をポジティブに捉えることはまだまだ、どころか今後も全くできないかもしれないけれど、環境が変わって生まれくるもの、あるいは、制限のもとだからこそできること、挑み、成し遂げ、輝きを放つこともまた、まったくゼロではないはずです。


いくつかのテレビやラジオ番組が、リモート収録を始めたと聞き及んでいます。収録チームを急遽集めて無観客で上演した音楽劇『VOICARION』が映像配信を来月には行います。実は私もいままさに本職のほうでちょっとした挑戦が始まっていて、それはもちろん前者ふたつに比べれば大したことではありませんが、まあでもそれなりに、誰かの日常的な何かを維持するためのほんのきれっぱし程度には存在するであろうものです。

結局のところ、今まで泳いでいた海でまだ泳いでいるし、もしかしたらその仕事は見ようによっては「不要不急」かもしれないけれども、いやいや、結局のところ仕事って「毎日」そのものでして、できる範囲ではやっていったほうがいいと思うんですよ。まずは「社会」を維持できるよう人と距離を取ることを優先しながらも、「毎日」を維持するための普段の活動も少しずつね、というバランスで。



で、AD-LIVEの話です。唐突でごめんなさい。

ぶっちゃけてしまうと、今、私は今年のAD-LIVEの可能性を考えることで遊んでいます。それも、無観客であることを覚悟したAD-LIVEの可能性を、です。
AD-LIVEはそもそもライブビューイングとの関わりが既に強く、無観客(配信中心)への切り替えのやりやすさに関しては、数ある演劇コンテンツの中でもかなり適して――あるいは準備が整って――いるほうだ、と言ってもいいと思います。

もちろん、単純に今まで通りの映画館でのライブビューイングというわけにはいかないでしょう。第一それ以前に、スタッフの皆様、出演者の皆様の安全のことを考えれば、観客だけ排したって意味は薄い、スタッフが一堂に集まるのはリスキーだ、と考えてしかるべきだとも。
それでも、「観客がその場に絶対に居ないことがわかっているなら、だからこそ逆に」やれることがある、という視点で考えること自体は、可能だと思いませんか。

例えば3人構成にしておいて、途中で1人が実際に観客席に降りて観客の立場に収まってしまう(=お互いに見せ合う形を作り上げる)こともできるし、ハンディカメラ中心の画面作りだっていけそうですね。カメラを前提にした構造をうまく利用したら、他の演者に知られないモノローグを観客向けに演じることもできるようになります。派手な隠し事ができちゃいますね。
こうして、ばーっとフラッシュアイデアで並べるだけでも、可能性は山ほどあります。無観客で配信が前提の舞台演劇、という事例自体がそもそも少なそうで、だったら、あらゆるものが実質バージンスノーになりえるのでは?
そう考えるとどうしてもわくわくしちゃって、AD-LIVEがどんな可能性を踏みしめられるのか、想像は尽きません。


もちろん、この危難が一刻も早く終息するのが何よりで、そのための努力は私も日々惜しみません。公演の日までに事態が収まって、何事もなく、今までの日常のように公演が行われることが一番だし、それを心より願います。

ただ! それはさておきですよ!! このような強烈な制約が一時的とはいえ発生している今、その条件下だからこそ生み出されるかもしれない珠玉の工夫を想像してしまうのですよね。……だって、そんな決死の抵抗、強引な工夫の可能性をですよ、まったく検討すらしないままに「絶対にやるべきではない」と中止を決断するでしょうか? あの総合プロデューサーが?

挑むための工夫、想像、検討を、考えないわけはないと思うんですよね。それが仮に一瞬で傾く天秤であったり、実らない可能性であったとしても。

だって、やっぱり私たちの生活にはエンターテイメントが必要だし、彼に――彼らにとっては、そのエンターテイメントへの挑戦こそが「いつもの毎日」なのでしょうから。

私達がこれから過ごす日々は厳しく、もしかしたら今、漠然と想像するよりも、もっとひどく重く垂れこめてしまうかもしれないけれども、それでも私達それぞれに、彼らにもそれぞれ「毎日」があり、「毎日」をそれぞれに生きていくしかありません。悲しみ、苦しむ誰かからすれば「考えることすら不謹慎だ」と見えるにしても、「けれど、私にとってこれは”生きる”ことそのものなんだ」と、向き合っていく瞬間も、時にはありえていいと私は思います。


最近の毎日はしんどいですね。これから、きっともっと激しくしんどくなる瞬間が来てもおかしくない。
それでも、だからといって、楽しんで悪いってことにはならないでほしいなあ、と思っています。

というわけでした。みなさんも、やっていきましょうね。

私は最近、『Death Stranding(デス・ストランディング)』(PS4公式サイト)を始めました。津田健次郎さん演じるサム・ポーター・ブリッジズとの長いお付き合いの予感。まだまだ序盤ですが、めっちゃくちゃ面白いです。

Nintendo Switchをお持ちの方には、4月30日配信開始の『グノーシア』(ダウンロード専売・PS Vita版あり。Switch版公式サイト)を全力でオススメ。最高だからホント。


それと、このブログでは、今後コロナ関連の話題は極力取り扱わないことにします。
真剣に考えてくださる方々に心からの敬意を向けつつ、ただひとりの私個人としては、「そういうのから気持ちを緩めていくこと」に向き合っていきたいからです。

そんなわけで、今後はちょっとずつ、些末でポジティブなネタを頻繁に投稿していけたらいいな、と思います。

実はずーっと森久保祥太郎さんについて考えて、考えて、まとめてるんですよ。優に1万字超え。……些末とは??