金銭の幸福とグロテスク~お金を払って悪いのか、払わなくて悪いのか
タイトルからして不穏ですね!
最近のオタク*1は、「公式にお金を払う」ことが好きになっていると思う。
この「好き」というのも、ものすごく複合的な概念で、「公式にお金を払うのは良いこと」だとか、「公式にお金を払うのは楽しい」だとか、「公式にお金を払うのはファンの義務」だとか、いろいろな形に分解が可能なのだけれども、ベクトルとしては推奨される行動、ポジティブなニュアンスをはっきり帯びているに違いない。
というのはもちろん、我々の今の社会は資本主義的なサイクルをマネーでもってぶん回すことで駆動していることからくるもので、それはつまり、「物事ってやつぁ、価格〈Price〉にコスト〈TIme&Money〉を注ぎ込んで、喜び〈Value〉を得る、という仕組みになっているんだぜィ。だから、その仕組みを自覚的に活用していくんでさァ」みたいな、わりと順当な話ではある。
ただ、こういう価値循環の仕組みが現代ではもはや筒抜けになって、消費者側がその循環の主流に自覚的になると、その傍流に対して辛らつになる、ということが起こるのではないだろうか。
端的に言うと、茶の間は引っ込んでろ、理論のことなんですけど。
ここでいう「茶の間」というのは、オタク界隈で蔑称的に言われるもので、現場に行かない=茶の間にいる、お金の使い方が荒くないファン層を指しているやつです。
価値循環のサイクルのメインストリームがよくコストを注ぎ込む層であるのは確かにしても、そもそも価値循環のサイクルとは一種類しかないものではないから、どっぷり楽しむ層、比較的ライトな層、なんならほぼノーコストで楽しむ層というのは必然的に発生しえますね。それはいい。ビジネス的な観点から言うならば、その「ノーコストで楽しむ層」という裾野のような人々を、どのようなステップでメインストリームに接近させていけるか、というような取り組みがありえて、それもそれで正しいし、とてもよくあること。
だてにアニメは無料放送ではないってことだったりとか、音声作品にはとてもしょっちゅう試聴がついてたりとか、そういうものだって、まずはノーコスト的なステップ1でしょう。重要なのは、そこからライトなステップ2、しっかり関わるステップ3にどうナビしていけるか、どう乗っかっていくかだったり。
私はすっかり価値循環のサイクルに取り込まれていて、だからこそ「好きな作品・アーティストにはコストを支払っていこう=ステップ2に進んでいこう」と考えるほうだ。だからこそ、自分がものすごくどっぷりと、コストをかけてステップ3まで楽しんでいる何かを、どこかの誰かがノーコストで、ものすごく美味しく――都合よく――ステップ1だけを楽しんでいるのを見かけると、「もうちょっとお金払ってくれたら嬉しいのになあ、サイクルが続いてほしいから」などと考えてしまったりすることも正直ある。
そして、「ああ、こんなこと考えたくないなー」と思ったりして、そこでそれ以上は考えない。人それぞれの楽しみ方やコストのかけ方があっていいのだ。絶対に。だって私だって、ほかの何かはライトに、あるいはノーコストに、つまみ食いしているんだから。
お互いさまってやつさ。
……と考えていて、それでいいはずなのですが、これがたまに逆に牙をむいてきたりすることがあって、これはもうじつに面食らう出来事ですよ。
共通の好きな作品について話していたのに、「そんなお金のかけかたしてるのには着いていけない」的な方向の、うっすら腰の引けた感じの反応が急に来ることがある。「すごいねー」って言ってくるやつ。
別にいいんですよ、こちとら礼儀礼節にのっとって、無理にでも着いてきてくれなんて絶対に頼みませんから、あなたはあなたで、ライトな楽しみ方で楽しんでいてどうぞ! 私とあなた、どうやら乗っかっているステップが違うので!
……と、そっと分断をはかってみるのですが、どうやらその手の人のさらに一部は、こちらの全力の(コストがかかった)喜びに魅力を感じているらしいことがあります
端的に言うと、おこぼれを欲しがるっていうか。
グッズを代行してくれとか、余ってたら(定価付近で)売ってくれとか、楽しそうなイベントには同行させてほしいみたいだったりとか。
音源コピーさせて、とかみたいなのもありますよね。
や、厳しいですね。連動購入特典*2の音源を聴かせてくれ、でもけっこう厳しいものですよ。こっちに目に見える、明示的な損がなくっても、やっぱりそれはフリーライダーじゃないですか。
ステップ1だけエンジョイしているノーコスト層に、ステップ3のものを手軽にねだられても、それには応えられないと思うんだ。
布教活動のためだったら、たとえばステップ2くらいのものをほぼノーコストでステップ1にいる誰かに提供してみたり、そんなこともありうると思うけれども、ステップ3のものはやっぱり、価値循環のサイクルのメインストリームを共有している誰かとでないと、分け合えないのだろうな、と思うのです。
お金を払う/払わないの軸ではなく、得られる喜び〈Value〉とのつり合いで考えていければいいなと、そんなふうに思った次第でした。