()内は可変
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たまには手慰みみたいな文章を書いてもいいじゃないの

「誰かに読まれる」ことに比重を置かず、「自分が書き読む」ために書くってこともたまにはあっていいわけだと思うのです。

まあもちろんこの時期ですから、AD-LIVE2018のライブビューイングに日々向かっては笑ったり涙したり、出演者の、そして舞台裏の皆様の技に瞠目したり、そんなことをしていますが、それはそれとして、日々、worksとjobsがあり、taskがあり、communicationがあったりしています。

近頃は、その多くで「引き受けている」感覚が強く、実はそのいくらかは錯覚であるわけなんですけども、事実として、依頼するよりはされる側感があります。我々は日々、誰かにたのまれごとをしなから過ごしていますね。

「たのまれごと」はさまざまな形でやってきて、有形の対価があるもの、ないもの、内面から湧き上がるもの──この内面とは生物的本能であったり、理性や倫理観による自律自制であったり、時に感情だったりする──ような感じです。

同時に、多くは外的規範の形をとる「たのまれごと=よき姿であれという漠然とした外圧」を、かなりのレベルで無視をし続けざるを得ません。


食事や睡眠、健康、金銭感覚、家族や友人との人間関係、公共での、あるいは界隈でのマナーやモラル、日用品や家電等の取り扱い、どんな場面やどんな対象を取り上げても、あらゆる事物に「よい◯◯」は必ず付随していて、そのすべてをもれなく愚直に守り続けては到底いられないわけじゃないですか。

自分が所有しているもののすべてを適切にメンテナンスしてますか?
エアコンは? シンクのパイプは?
シャツの漂白やクリーニング、靴の脱臭?
睡眠は8時間、野菜は1日300g、適度な運動に瞑想をし、
よき子であり、よき家族であり、
よき夫で、よき妻であり、
モンスターペアレントにもクレーマーにもならず、
仕事では有能で、向上心を忘れずに技術を磨き、
政治に対して一定の見識を持ち、投票権があるなら選挙には行き、
もちろん適当に票を投じることもせず、
ブラック企業を憎み、困っている隣人を助け、
清潔感を大切にしながらファッションをエンジョイし、
エンタメを楽しみ、偏見を持たず、
平易なポリティカルコレクトネスに準じ、
他者を罵倒せず、嘘には騙されず、
持続可能な社会のためにできることをし、
ゴミを分別し、リサイクルに努め、


このままいくらでも続けられるんですが、まあ、キリがないので。

やっていけてることもあるけれど、取りこぼしているものもあって、でも、これらをまるですべて実践しているかのように見える方が世の中にはあふれているわけで、それはまあ、漠然としたコンプレックスも抱きますよね。やってられっかー。自分が網羅的でない雑さを有していると、どうしたって自分がいちばんよく知っている。


一方で、社会的動物の根源的欲求として、私は「世界をよくしたい」みたいな漠然としたことも思っていて、その結果として、非常に多くの場面で外面よく振る舞います。仕事場でも、どこかの店でも、接する人には基本的に穏当に、にこやかに、機嫌よくありたいですし、仮になんらかの怒りや苦情を申し立てる場合であっても、内容に対してちょうどいい規模の感情でもって振る舞いたいと思います(100%ではないまでも、ほとんどの場合で成功します)。
ちょっと関わりがあった人が気持ち良い人柄だったこと、仕事でふとすれ違った人がにこやかだったこと、小さいことでもちゃんと受け止めてくれたこと、そういう些細なことが人生のあたたかさを増すのをよく知っているので、それを極力生産する側に立つことで、何かをよくする、よくしたい。


「よき◯◯」への抑圧、そこへの諦念と、世界に対して善良さを保持する努力は、かなりの程度で相反するというか、「聖人君子じゃいられない/でもまあ良き自分でありたい」のバランスであって、無理ムリ、これは無理、と雑に投げ出しながらも、自分が接するあれこれには、まあ、できる範囲でていねいに当たっていくわけですね。


この「ていねいに当たっていく」ことにも実はそろそろうんざりしてもいるんですけど、それでも友人から見た私はどうやら精神の安定している常識的な人物に見えるらしく(私のどうしようもなさ、抜かりのあれこれを知っている方もいるわけですよ、もちろん)、それは別に間違っているわけではない、というかそう見えるように振舞っているのですから一種の成功の類ですらありますが、いや何って、それは努力の成果物でもあるのです。当たり前のようにやってるわけじゃねえぞ。
いや、当たり前なんだけれども、今の自分のありざま*1は断じてノーコストではない。こんな自然体があってたまるか。


わたしはノーコストではないんだぞ、とあえて明言するにともなって、「あなた」だってノーコストではないはずだ、と、私は考えます。


「あなた」もだいたいにおいてこうあるはずでしょう。力の分配や重視するポイント、そのために犠牲にする分野はそれぞれに違うだろうけれども、ひとは「常に漠然と『よさ』に向かい続ける」構造になっているわけで──向かったことによって遡及的に「よさ」が決定されるせいはあるにせよ──そりゃ、誰だって、「あなた」だって、日々、コストを支払って『よく』しているに違いない。

みんなそうなんだよねー。多かれ、少なかれ、さあ。

そんなことを喫茶店で書いていたら、「Wouldn't It Be Nice」*2が流れ始めた。歌詞を見ずともなんとなく口ずさめる英語楽曲のひとつ。

イッツオーケー。おたがい、やっていきましょうね。

もしも、かけらも「自然」じゃない振る舞いが私をヒトからニンゲンにするのだとしたら、ニンゲン上等、ヒトになるのは眠っている時だけで十分です。

*1:造語です。ニュアンスを感じてほしい。

*2:邦訳タイトルの「素敵じゃないか」も好き。