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キミとボクとの約束――AD-LIVEの小道具が〈本物〉である理由

AD-LIVE2017のパッケージ版が発売され始め、そろそろAD-LIVE2018の足音がわれわれ観客側にも聞こえ始めた頃合いでございますね。

そろそろこの話をちゃんとまとめておきたいと思います。今回のトピックは、「なぜAD-LIVEの小道具は〈本物〉なのか」です。



AD-LIVEの小道具は全部〈本物〉です! by 総合プロデューサー

折に触れ、このアピールは何度か繰り返されてきました。例えば多くの書籍、例えばビールやカップ麺、ケーキなどの食べ物も、何なら綿菓子製造機でさえも、さらにはエレキギター、ドラムセット、シンバルも、すべてがAD-LIVEにおいては〈本物〉でした。

……では、この「本物」とは、そもそもどういう意味でしょうか? 現実〈本物〉と、劇中《本物》の違いはどこにあるのでしょうか。

演劇における《本物》とは?

ひとつ、象徴的なアイテムとして「拳銃」を仮定しましょう*1。この舞台上に登場した「拳銃」は、物理的には〈偽物〉、模造銃であるはずです。この模造銃は、どんな条件が満たされれば「《本物》の拳銃」に思えるでしょうか。

例えば、

  • 見た目
  • 引き金を引くと音が鳴る
  • 引き金を引いた結果、何か物体や人物が破壊される

というような、拳銃の性質・性能が示されればいかにも《本物》っぽいですし、

  • 登場人物全員がその「拳銃」を《本物》と見なして振る舞う

という、状況証拠のようなものだけでも、《本物》である感じがするでしょう。


さあ、ここでひとつポイントがあります。

  • 登場人物の誰か一人が強硬に「その拳銃は《偽物》だ!」と言い張る

としたら、観客側から見て「拳銃」が《本物》かどうかは怪しくなると思いませんか。登場人物のどちらを信じればいいのか、分からなくなりませんか。

これが、演劇における《本物》《偽物》の性質です。劇中における《本物》《偽物》は、劇中の振る舞いによって変化してしまうぐらい、大きく揺らいでいるものなのです。これを、ここでは「存在の信頼性が揺らぐ」と言うことにします。

存在の信頼性と、交わす約束

演劇において、劇中に登場する存在は、たえずその信頼性が脅かされています。この信頼性を保ち続ける要素として、〈本物〉そのものの見た目、引き金を引いたタイミングで音が鳴るような演出や、誰もが「《本物》である」という前提で振る舞う脚本がある。それらがなければ、存在の信頼性が揺らいでしまい、〈偽物〉《本物》として扱えなくなります。こうなると、ドラマの立脚点が脅かされ、緊迫感が薄れたり、酷い時には成立しなくなってしまう。

演劇において立ち上がってくる劇中世界というのは、このように、意外なほどに儚く、もろいのです。これを防ぐためには、その場に居合わせる全員に対し、何が《本物》で何が《偽物》かを瞬間的に共有し、約束しなくてはなりません。観客も含めて!

しかし、AD-LIVEには、その約束を交わすための確実な要素が何も存在しません。脚本もなければ、綿密に決め込まれた演出もありません。即興を軸に立ち回っているキャストたちはそれぞれの思惑を持っていて、全員が同一の思い込みのもとに立ち回る保証だってありません。

それどころか、AD-LIVEにおいて約束を交わさなくてはならない相手は観客だけではなく、出演者陣すら含まれてしまいます。通常の演劇であれば、出演者側は事前に完全な約束をしておくことができますが、AD-LIVEではそれさえできないからです。

だから、AD-LIVEにおいて、《本物》の拳銃を登場させるのは――正確には、《本物》の拳銃をメインキャストに扱わせるのは――実は意外と難しいのです。


演出の緻密な助けが得られる(=演出部と約束しておける)彩-LIVEのようなサブキャストであれば《本物》の拳銃で銃声、血しぶきをあげることもできるでしょう*2
あるいは、そこまでの話運びで、拳銃が出てくることに強い真実味があれば、登場した模造銃を《本物》だと思い込ませることができるかもしれません*3

でもそれらがなければ、誰か一人が「これって《本物》?」と疑ってしまえば、約束がなくなり、存在の信頼性は揺らぎ、ドラマの腰が折れてしまう。


それでいて、登場する存在が《本物》《偽物》かというのは、多くの場合にはドラマの本筋ではありません。疑おうと思えばいくらでも疑える一方で、それを疑うことにメリットはほとんどありません。そんなことに割く時間は惜しいのです。だから、よほど重要な存在でない限り、その信頼性が揺らぐ隙を与えず、問答無用で《本物》であるという約束を交わしたい、という力学が働きます。

そのためにAD-LIVE演出部が事前に頑張って用意できるのは、基本的には「見た目」などのディテールだけ――これが、AD-LIVEの小道具が〈本物〉でなければいけない理由のひとつだと私は思います。


本筋のドラマを邪魔しないため、「《偽物》かも?」という余計な疑いを極小に抑えるために、全力で〈本物〉を用意し続ける。AD-LIVEの舞台上に登場する揺らぎ続ける存在たちを、ただひたすらに《本物》であると約束するための絶え間ない努力が、あの〈本物〉たちなのではないか。それが、現時点での私の結論でございます。


ここまでの長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。ただリッチなだけではなくて、必然性があっての〈本物〉なんだろうな、と思ってはいましたが、こうしてまとめて考えてみて、本当に大切な取り組みなんだなと思い知りました。考え抜かれた結果のあの形なんでしょうね。ますますファンになってしまいますよ!

拡張して考える

最初のほうに「存在の信頼性が揺らぐ」という表現を立てました。ここでいう「存在」とは、実は小道具だけを指しません。人物や大道具、舞台設定も含んでいます。

例えば、女装した男性が登場したとしましょう。実際には〈偽物〉の女性ですね。さて、これは《本物》の女性でしょうか、《偽物》の女性でしょうか?

例えば、タイムマシンが登場したとしましょう。実際にはもちろん〈偽物〉のタイムマシンですが、作中では《本物》であることにしたいんです!

例えば、舞台が宇宙空間だとしましょう。実際には〈ウソ〉です。さて、どうすればそれが《本当》だと約束できるでしょうか。

このような視点でも観てみると、AD-LIVEの出演者たち、演出部、制作スタッフの皆さま方がどれほどの濃度・密度をもりこみ、いくつもの約束を絶えず交わしながら――あるいはその約束のなさを逆手にとりながら――劇中世界を成立させているか、まざまざと感じ取れます。

本当に特異な舞台ですね、AD-LIVEは。今年もすっごく楽しみです。

考察の一助になる実例集

以下、おまけです。〈偽物〉《本物》にする約束の実例や、《本物》《偽物》の境界に限りなく接近する例をピックアップしました。お手持ちの方はぜひふり返って観てみてください。すっごいぞ。

*1:今までのAD-LIVEの公演の最中にも何度か登場しています。

*2:ご覧になった方、アレです。もちろん、血しぶきは〈偽物〉ですけどね。

*3:ご覧になった方、アレです! 本当に、あの場面でのメインキャストのおふたりは、途轍もない離れ業をやってのけていると思います。もちろんそこに到るまでの脚本の流れもとても見事。出色の公演だと思っています。