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本多劇場グループPRESENTS 『DISTANCE』~「制御不能朗読劇〜読むAD-LIVE〜」のあれこれ

(6/10 注釈に一部追記)
本多劇場グループPRESENTS 『DISTANCE』より、6月6日(土)14:00開演 「制御不能朗読劇〜読むAD-LIVE〜」(出演:鈴村健一)をSteaming+で観劇しました。

distance.mystrikingly.com

記憶が古びないうちに、雑多に項目として書き綴っておきたく、こうして書いております。構成を整頓する時間が惜しいので、少々とっ散らかってしまうかも。読みにくくてすいません。

あとめっちゃ長いので、覚悟してくださいね。以下、続きを読むからどうぞ。

公演形式のメモ

額縁構造をとっていました。ソーシャル・ディスタンスを保って劇場を清掃する清掃員2名(出演:川尻恵太、御笠ノ忠次)が、演劇とはなんぞや、と話す中間に、本編がまるまる収まっています。プロローグ的な位置づけですが、この清掃員2名の会話そのものもたいへんに良い。てらいのない中にも本公演シリーズのすべてが乗っていると感じられる言葉ばかりで、とても胸に刺さりました。御笠ノさんの書いた言葉だとのことで(参考URL)、さすがです……素晴らしかったです。

挟まれた本編自体もまた二部構造で、前半は「制御可能朗読劇」、後半は「制御不能朗読劇」とされます。制御可能朗読劇は固定されたテキストの一本道ですが、後半の制御不能朗読劇においては、一度朗読された言葉が空欄になっていて、その空欄に行き当たるたびに、バッグからアドリブワード*1を引き出して埋めていく作りになっていました。

この形式は、端的には、VTuberりんくろー(YouTubeチャンネル「りんくろー事務所」)の穴埋め物語シリーズに酷似しています。

【穴埋め物語】ルーレットで穴埋め!世界に一つの桃太郎!
www.youtube.com

余談ですが、本エントリでは「りんくろー」と鈴村健一さんの関係に関しては「公然の秘密ってことはヒミツってことだよね」の立場で書きます。りんくろー個人がAD-LIVEに挑戦していることなどから、両名をあえて極端に分断する必要も、強く連結する必要も特にないと判断しているためです。

ただし、上記の動画との差異が大きくふたつあり、

  1. 空欄に言葉を埋めるのはその都度にするのか、最初にまとめて決定しておくか
  2. 埋めるための言葉をどこから調達しているのか

という点があげられます。これはわりと重要なことです。詳しくは追って。

前半:制御可能朗読劇

全体はおよそ20分ほど。豪雨の山中、車で事故を起こして出会った2人の男が洋館にたどり着き……というふうに始まります。全編を通して、私が〈PG脚本〉と(勝手に)呼んでいる(参照エントリ)、特に「AD-LIVE2014」で完成された流れそのままと言っていいと思います。

……「DISTANCE」を観たけれどAD-LIVE2014は観ていない、という方のために、白黒反転でざっくりと流れを書いておきます。記憶だよりなので、細部はちょっと怪しいですけどね。
(以下白黒反転)
豪雨の夜、誰もいないらしい洋館に、2人の人物が次々と尋ねてくる。どちらも立ち往生したらしく、避難先を求めてのことだ。声を張り上げても誰も出てこないのを不審に思いながらも、背に腹はかえられず、自己紹介して休む2人。突如として鳴る電話。留守番電話に切り替わり、聴こえる女の声。そして停電。明かりを求めて家の中をさまよった2人は、ベッドに寝たままの死体を見つける。2人の声や留守番電話に応えられる人物はいなかったのだ。寝室に置かれた新聞から、2人は今日が何の日だったかを思い出す。今日は、地球最後の日だったのだ。突如発見された惑星。その惑星の地球への衝突が避けられないと知った時、絶望に覆われた人類は「ポジティブギブアップ」という驚異の思想に至った。地球最後の日まで今まで通りの日常を過ごそう、というその思想は、多くの人類に受け入れられた。洋館にたどり着いた2人も、地球滅亡を知りながらそれぞれに日々を過ごしてきたのだ。そして、まさに今日がその地球最後の日。屋敷に響く轟音。音に驚き見に行くと、そこには隕石らしきものが。空の色も変わり、雷の音が鳴る。まもなく地球は終わる。その時2人は――
(白黒反転ここまで)

もともとのPG脚本では、「訪ねてくる人物の造形」の部分が役者個人に委ねられていますが、今回の朗読劇においては、この人物は2人ともすでにテキスト上に存在していました。一人は北沢、もう一人が本田です*2。北沢は若い男、本田はなんともさえない容貌の中年の男でした。北沢が一刻も早く街に戻りたい様子を見せる一方で、本田は自動車の衝突事故の衝撃もあってか、記憶がいささかぼんやりしているようです。

前述のように、もともとのAD-LIVEのPG脚本の仕組み上は、ここに入る2人の人物像は可変です*3ので、今回の人物造形には一人朗読劇の都合が反映されていると思ってよいでしょう。両方が男性であること、年齢に差があり声音で区別がつけやすいようになっていることももちろんですし、記憶の明瞭さに差を作り、それぞれが能動的に動き出すタイミングが同時にならないように調整されているのもスマートです。合わせて、北沢の主たるスタンスが息子、本田の主たるスタンスが父親であることで、互いが互いの親子関係を参照する点、さらに留守番電話で親・子・孫関係をプラスして、登場する人間関係の構図を整頓するシンクロもあります。じつに綺麗でした。

メタなレベルで言えば、北沢は主に演劇を、本田は主にディスタンスを扱うキャラクターで、北沢は劇場に向かい、舞台に立って本番を演じたいと願いながらもそれが果たせず、本田は自分の不心得で途切れた息子との関係を思い、対面でのコミュニケーションに激しい渇望を覚えながらも、後悔と怯えを抱き……という作りも、2020年前半の「演劇の公演ができない/会いたい人と会えない」という状況と一致しています。

作中では、北沢は父親との電話での会話のなかで己の芝居を結実させ、本田は実際には会えないまでも電話越しに声を交わすことで大きな埋め合わせを得ることになります。つまり、舞台には立てないし、直接は会えなかったけれど、彼らはそれぞれに別の形で本懐を遂げているとも言え、これもまた、現実を現実のままに救いを得るという点で、本公演シリーズの目指すものへのシンクロが意図されたと思ってよいのでしょう。

『DISTANCE』公演としてのサブタイトルに据えられたのはあくまで「制御不能朗読劇」であることを思えば、「制御可能朗読劇」と銘打たれた前半部は、実質的に前座、大いなる前振りとみることも可能です。実際、キーワード「最後」をややしつこいくらいに繰り返しておいたり、固有名詞を一気に出現させるパラグラフを作ったりなど、後半での仕掛けを踏まえての文づくりの気配をかぎとれる気がします。しかし、それらを抜きにしても、こうして要素単位で見てみて、単体としても相当以上によくまとまっているように思います。こうして整理してみて、「こんなにも」と思うくらいよく出来ていて、あらためてうなってしまいました。

後半:制御不能朗読劇

以下のテキストを読む前に、前に掲載しておいたVTuberりんくろーの動画(以下桃太郎動画)を観ておいていただきたいです。ものすごく綿密に比較参照するので。

では、あらためまして。後半、「制御不能朗読劇」では、前半で読み上げられたテキストの要素が、突然に(  ①  )のような空欄の形式で表示され、読み手は新たな番号の空欄に突き当たるたびに、そこに入る言葉を求めてバッグに手を突っ込むことになります。

第一のポイント 言葉を置換すれば劇中の現物が置換される

上記のように、「新たな番号の」というのはひとつのポイントで、本公演におけるアドリブワードは、文字列の一部分を置き換えているのではなく、作中の概念そのものを置換します。一回置き換わった語は最後まで基本的に置換された状態を維持しますし、このため、文章が進むほど、空欄の密度そのものが増すとともに、番号の順序も入り乱れることになります。

桃太郎動画の2:33~(秒数指定リンク)には、「おじいさんとおばあさんが〈②:横綱を食べようとを切ってみると~」という流れがあり、これにりんくろーが「ここは桃なんだ」と思わずツッコむ、というくだりがありますが、これがある種のズレと認識されるためには、言葉の置換=事物そのものの置換でなければなりません。いったん〈桃〉を〈横綱〉に置換したのだから、もう〈桃〉は出てこないのが基本、という。

たとえば〈最後〉が〈⑦:笑い〉に置換されましたが、一回だけ「終わり」という語が出てきていて、これが意図的なずらしなのか、気になるところです。

第二のポイント 劇中現物はずっと置換されっぱなしなので、ワードも出っぱなし

今まで実施されてきたAD-LIVE本公演では、アドリブワード(の用紙)は基本的に使い捨てられていました。が、今回の朗読スタイルでは、一部の語は番号と完全対応する形で強く保持されることが望ましいです。しかも、覚えておく量が多く、対応も細かい。本公演のように重要なところだけを強く覚えておいて、忘れちゃってもそれなりに対応して、というわけにはいきません。このため、台本を置く譜面台とは別に、アドリブワードの用紙そのものを置くための机が別に用意されました。よく見えませんでしたけど、6~9枚程度が想定されていたようです。

なお、記憶の限り、複数回参照があったのは前半脚本の〈最後〉〈ポジティブギブアップ〉〈孫〉〈裏切り者〉などです。ほかにも2回登場の語とかはあったはずですけど、元文を覚えきれませんでした……。

ここでまたしても桃太郎動画を参照するんですけど。桃太郎動画では、すべての空欄を事前にルーレットで決めてしまいます。実際に動画でも「虫食い部分は、事前にルーレットで決まった言葉で」(秒数指定リンク)と明言され、実際にルーレットを回す場面も先に登場します。読みあげるにあたっては、すでに完成されたテキストを読んでいる状態にあったんですね。

一方で、今回の公演中、鈴村さんは2回ほど番号と言葉の対応をロストしています。ひとつは単に引いたワードを机に置き忘れた=物理的に見失った、というパターン。もうひとつは、朗読時に1行まるまる読み飛ばしてしまったためにそもそも初登場時にワードを引けておらず、後で登場した際にあらためて引く羽目になった、というものです。

事前にすべてを引いて机に展開しておければこのロストは防げたのですから(これがLIVEな公演と配信動画の差とも言えますが)、生っぽい味わいが露骨に出たところともいえましょう。

第三のポイント それでもテキストは絶対

今回の「読むAD-LIVE」において、アドリブワードの使用法は〈空欄埋め型〉に特化しています。ここでいう〈空欄埋め型〉というのは、ある一定の長さの文の中間に、つまり前後にごく自然な文章が存在するところに差し込む、という条件のものです。独立した台詞そのものを置換するのは、厳密には〈空欄埋め型〉ではなく、実際には〈名付け型〉です。微細な差ですが、明確に違うのです。

たとえば、「私の国では、日本語の『ありがとう』は〈小松菜〉*4と言います」は〈名付け型〉で、「門前の小僧習わぬ〈永遠なんてなかった〉*5を読む」は〈空欄埋め型〉です。

このふたつの例を分けるのは、想定される正解の有無です。ある架空の国の感謝の言葉はいくらでも想像可能で、どんな文字列でも間違いになりませんが、「門前の小僧習わぬ経を読む」は成句であって、こちらが正解です。つまり、原点=原典があって、そこからのズレ度合いが測れる、ということ。これもまた厳密にはグラデーションで、「好きな食べ物は〈    〉です」という場合には、食べ物という概念全体が想定される正解グループを成すのですけどね。

言い換えると、固定された前後の文章が強固に文脈を形成するとき、その文脈への一致度あるいは不一致度が可視化される、となります。

今回の公演の場合、前半に「制御可能朗読劇」を読んでいる以上、すべての空欄には原典があり、そのため、〈空欄埋め型〉の性質のほうが強いと言えます。同様の例として、桃太郎動画において「ももたろう」の原作が「強力な文脈」そのものであることに触れれば、説明としては十分でしょう。ももたろうの原作なら、だいたいの人がそらんじて語れますもんね。


さて、アドリブワードの使用方法の話に戻ります。
もともとAD-LIVE本公演においては、アドリブワードを引く→使うという流れにはある程度の自由度があり、即座に口にしなければならないわけでもありませんでした。必ず使用しなければならない、というルールだけ。この特徴から、前述の〈空欄埋め型〉の用法以外にも、「まずはアドリブワードを発声してみて、そこから話を繋げる」という〈始点型〉、「アドリブワードをまとめに使う」という〈終点型〉など、捌きそのものもいくらでも選択できる。

ワード募集時のクエスチョンから一定の傾向がもたされているとはいえ、アドリブワードは、形容語句、セリフ、名詞、オノマトペなど、その言葉としての形が多様で、このために、語句の形によって自然に聴こえる捌きが異なります。もちろんこれは「自然に捌けば良い、自然でなければ悪い」とは単純には言えなくて、不自然であればそれはそれで面白おかしい、という性質もあります。

特に〈空欄埋め型〉はこの不自然さをとても簡易に得られるという特徴があります。一文の中で文脈を形成し、それを破棄しうるので、単文で取り上げて面白くなりうるんですよね。そして、私が過去観てきた公演の中で、この〈空欄埋め型〉をもっとも意識的に強力に活用してきたのがまさに鈴村さんです。

具体的には、AD-LIVE2015の各公演、特に後半に顕著でした。劇中に登場する最上を演じていた鈴村さんは、料理をサーブするにあたって、「本日のメニューは〈    〉です」の形を定型として、その時にどんなワードを引き当てようが機械的にワードを空欄にねじ込む、というプレイをしています。シンプルなように見えますが、ついつい自然な響きになるようにうまく捌いてやろうとしそうなところを、どんなにセリフに違和感がうまれようが空欄を埋めるだけに留める、と決めて捌きを放棄し意志の力でねじ込むわけで、これはこれで一種の高等テクニックだと思います。実際、本公演をつらつら観ていると、意外とこの〈空欄埋め型〉の出現頻度は高くありません。即興劇においては、観客席にも間違いなく共有できる強固な文脈形成、という条件がそもそもそんなに頻出しませんから、当然なのかもしれませんが。

一方、今回の公演では、元テキストは目の前の紙の上にあり、しかもすでに直前でいったん朗読済みです。これ以上ないほど強力な文脈形成です。だからこそ、ばっちり〈空欄埋め型〉が機能しまくってくれたのでしょう。


しかししかし、このテキストの強固さは、別方面では非常に拘束的に作用しうるとも言えます。具体的にその可能性を感じたのが、本田の独白の場面。

作中、記憶が明瞭になった本田は、突き動かされるかのように自分がどんな人間であったかを語ります。そこで出てきたワードによって生まれた、〈ダメな変な人〉が非常にパーフェクトでした。文法は正しく、それでいてあまりにも間抜けた響き……AD-LIVE本公演だったら、全員が気に入って連呼しちゃいそうなぐらい、パワーのある表現だと思いました。が、その後の本田の独白の締めは「私は、バカでした」という、アドリブワードを使っていない文のみでまとまっており、読み手である鈴村さんは、ここでテキストから逸脱することもなくそのまま進行しました。これを観て、もしもテキストというレールがなかったら、もう一回ぐらい〈ダメな変な人〉と使っていてもおかしくなさそうだな、という印象を持ったんですよね。


私としては、これを今回の朗読劇の特徴として特筆したいと思います。本エントリの前半で、私は「今回の朗読劇においては、この人物は2人ともすでにテキスト上に存在していました。」と書きました。脚本を書いたのは鈴村さんなので(参照URL)、人物を作ったのも鈴村さんなら読んだのも鈴村さんなんですけど、機能上から見ても性質上から見ても、脚本家と読み手は完全に独立しており、読み手は脚本家の書いたテキストに対して一切の編集を加えない約束になっています。なので、前述部においても、「読み手が作った」のではなく、「(脚本家によって)すでにテキスト上に存在していた」という表現を選んでいます。

もともとのAD-LIVEでは、アドリブワードは設定を変化させうる存在でした。物語の外形――例えば電話がかかってくるとか、横たわった男の体がある*6とか、隕石が落ちるとかまでを変える力まではないにしても、もっと別の部分を書き換えうるもの。

ですが、今回の公演ではテキストの絶対性がもっとずっと強くなっています。読み手側にテキストを振り払う権限がないので(朗読劇なので当たり前なんですけど)、「ついつい楽しくなって余計に読んじゃった」的な遊びの余地はなさそうです。

だとすれば、タイトルの「制御不能」とは一体どこにかかるのか、誰から見て何が制御不能なのか?
それを考えるために、もうひとつ、補遺を追加することにします。

第四のポイント うっすら制御があるのか、ないのか

もう一度、桃太郎動画に戻ります。実際にルーレットを回す場面(秒数指定リンク)で表示されている言葉は実は5つだけで、「オタ芸/自作ポエムの朗読/洗濯/確定申告/カポエラ」となっています。「川へ○○に行きました」という文に対して、文法的にエラーを起こさない語ばかりです。

あくまでも編集のある動画のこと、このルーレットの表示自体どこまでガチなのかは確かめようがないので、まともにこの語群を信じて考察をする意味はほぼ無いんですが、それにしても、全体を通して文法レベルでの破綻がないのは間違いなく、空欄それぞれに対して文法的に成立する語群を個別に作成しているとみてよいと思います。

翻って、今回の公演です。後半、脚本中の空欄は、単語、セリフ、固有名詞、などなど、いろいろな個所に及んでいました。ただし、どこを抜くか、という点に関しては、どうやら制御が効いている、というか、意図が感じられます。特に〈最後〉の空欄化は大きいですし、〈惑星ダーウィン〉〈NASE航空宇宙経済局〉〈ポジティブギブアップ〉など、固有名詞がいっぱい出てくるくだりをことごとく空欄にしてあるのもとても意図的に感じられました(しかも超・効果的でした。めっちゃくちゃ面白かった)。

それでいて、アドリブワードはあくまでもごちゃまぜであり、テキストの強制力は非常に強力です。だから、用意された空欄の形にワードが綺麗に収まってくれるとは限らず、意味どころか文法すら破綻していきかねない。たまたまうまくいくことはあっても、それはあくまで偶然であって、長く続ければ続けるほど、細部が崩れていくことが予感されます。桃太郎動画ではうっすら制御で守られていた体裁も、今回の公演では守られていなかったといえますね。

まとめ 制御不能であるとはどういうことか?

ここまで4項目を並べてきて、今のところの私は、こういう見方ができそうだ、と思っています。

アドリブワードによって、物語は文法すら保てなくなるほどに脚本家の手を離れる。
テキストによって、アドリブワードを御すこともできないように読み手からの介入を拒む。

つまり、誰の立場から見ても言葉が制御不能だ、と。

「制御不能朗読劇」は、そこに書かれた言葉への制御を一切受け付けないように成り立ちうるのかもしれません。テキストとアドリブワードが共謀して、脚本家からも読み手からもするりと身をかわすのだとしたら、読むAD-LIVEはかなり危険な代物です。

無限の猿定理(Wikipediaによる解説)、いやいや、中国語の部屋Wikipediaの解説)、なんにせよ、言葉から意味を剥がす可能性を持っています。劇中の言葉は偶発的に発生し、それを微調整することすら誰にもできないのですから。


では、そんな制御不能になった言葉たちを、なぜ「読むAD-LIVE」と呼べるのか?

この問いに答えるためには、さらにもう一つ、資料を追加する必要があります。
映画『ドキュメンターテイメント AD-LIVE』には、鈴村さんが「役を演じるってことの原点の話になるんですけどね」と語る場面があります。「どんなにやってきても《セリフを読む》という意識を拭い去るのは難しい」「即興芝居っていうのは、いまその瞬間にうまれる生のセリフというのを発することができると思う」「その感覚をお芝居をやる人間として持っていたい」というような(正確な引用ではありませんけど)。

今回の「読むAD-LIVE」は、まさにここに逆説的にアプローチしていると私は思うんですよ。《読み上げる言葉から意味がはがされ、発する音さえ規定された朗読は、果たして物語の中に存在するものを描写し、登場する人物の感情を描きうるのか?》という挑戦を、今回の「読むAD-LIVE」の構造からは見てとることができます。読み手にできることが極めて限られてしまう、脚本家にさえできることがない、そんな制御不能な朗読劇なら、拭い去るのが難しいという《セリフを読む》という意識も激しく揺さぶられそうです。


今までの本公演とはまったく違う成立の仕方をしているとはいえ、「読むAD-LIVE」は《役を演じるってことの原点》に強く踏み込んでいくという点で、AD-LIVEらしさをものすごく強く持っている作品なのではないか。
……と書いたところで、私の書きたいことはだいたい書いた感じです。


URLリンク等も含めてですが、だいたい1万字超えだそうです。お楽しみいただけたのなら幸いです!

*1:引き出された紙のロゴを見る限り、ZEROのバージョンを利用したみたいでしたね。

*2:名前の由来は下北沢と本多劇場でしょうかね。北沢タウンホールもかかってるのかも。

*3:これまた余談ですが、「人物像が可変」というのも実はとんでもない特徴です。これはつまり、物語の展開を駆動するエンジンをキャラクターが個別に持たなくても最低限成立しうる、ということだからです。

PG脚本に限らず、TF脚本、MD脚本にもこの特徴は共通で、このため、AD-LIVEの多くでは、物語の展開のほとんどは外部からもたらされます。たとえば電話がかかってくるとか、停電するとかもそうです。電話がかかってくるのも、停電するのも、メインの登場人物が原因になっていることは基本的にありません。もちろんそれを逆手にとってアレンジすることは可能ですが。

(以下6/10追記) 「物語の展開」という語があんまり良くなかったなー、と思ったので補足をば…… ストーリにおいて、「進行」と「展開」は細かくはちょっと異なるもので、場面が展開することでドラマが進行する、という関係性にあると言えます。例としては、雷(展開)がきっかけで、人物が心の内を語り出す(進行)などのようなことです。AD-LIVEにおいて、登場人物が持ち込むものはより本質的には「自らのドラマ≒進行の道筋」で、「場面を変え、転がす手管=展開」ではないのですね。

*4:モバ-LIVEで引きました。

*5:モバ-LIVEで引きました。

*6:細かい話ですが、アドリブワードは死体を蝋人形にするぐらいのパワーはあります。