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AD-LIVE ZEROについてちょっと書く〜各取り組みの効果と結果をつらつらと

あけましておめでとうございます。2020年も書いたり書かなかったりしていきたいです。


さて。徳島公演が思わぬ形で決着したために、なんとなく機を逸していたテキストがありまして。

あらためての追加公演も間近に迫ったということで、下書きで眠っていたものを供養的に引っ張り出してみようかと思いました。大部分は徳島公演の中止の直後ぐらいに書いてたものです。

AD-LIVE 2019 あらため AD-LIVE ZEROで見えたことについて。

くじが事前に見られること〜転生トラック的省略のあり方

冒頭のトークコーナー、および終劇後のアフタートークが設定されたように、そもそも公演全体の枠組みが違ったAD-LIVE ZEROです。開幕にキャラクターの情報や舞台設定がある程度晒されているだけでなく、演出要素*1も「くじ」の形にしてオープン。劇中、30分経過で3枚追加する、という伏せカードはあったものの、これが莫大な威力を発揮した例はさほど多くなく、かつ、すべての演出カードはもれなく使用されなければならなかったので、観客側からすると追加カードの意義はそんなに大きくなかったと思います。少なくとも、初めて観劇した時点では「よくわかんなかったな」となりやすいと思うんですよね。

さて、まず触れたいのは、「設定があらすじに書いてある」ゆえに、劇中で説明しなくてもよくなる、という構造です。
以前、当ブログでは「AD-LIVEでは約束が難しい」という趣旨のことを書きました。

talko.hateblo.jp

一方、今回のAD-LIVE ZEROのように、事前に一覧で情報を開示してしまえば誤解の余地もないし、すでに決定・約束された事項として取り扱ってもらえます。つまり、冒頭のテンプレ的情報交換、世界観のベースの構築・確認を一部省略できる。

このような省略を生かした例としては、見出しの通り、「転生トラック」が挙げられると思うんですよ。「なろう小説」に代表される、ネット連載型ノベルの一大ジャンル、異世界転生ものにおいて、主人公が異世界に転生するきっかけを作るのによく登場するのがトラックによる交通事故です。ゆえに、このトラックを指して俗に「転生トラック」と言います。

転生トラックが流行した理由は容易に了解できます。それは、異世界に転生するまでのくだりで個性を出す必然性は通常なく、とにかく早く異世界の場面に入りたいから異世界に転生して、その異世界を描写するのが作品のメインであるからには、主人公には可及的速やかに、しかも文句の余地なく現世から退場してもらいたいですし、その場面でエキセントリックなことをする必要はないわけですよ。雑なテンプレで構わない、どころか、読み飛ばせるぶん、雑であるほうが良い、とすら言えます。一瞬で通過したいくだりなんですから。

同様に、AD-LIVEの舞台においても、「はじめまして」から「ここどこですか」「あなたはどうしてここに」などの冒頭場面を探り探り、言い換えれば約束できるほどていねいに積んでいくとなると、いささかくどく、テンプレ的になる可能性は高いと言えます。90分より短い60分の尺でドラマを展開させる条件下では、積極的に省略していけるポイントだったということだったのではないでしょうか。

もっと極端な例としては、AD-LIVE 2016の開幕シークエンスや、2018の冒頭の読み上げなどがあります。演者によるアレンジがまったく入らないため、全公演が完全に同一の進行をしますし、それにしては尺が長いですから、通い詰めるぐらい通った人にとっては飽きやすいポイントだったかもしれませんね。*2

演出要素の類型と、使い物にならなかったあれやこれ

はい、私的には問題の項目です。冒頭のトークコーナーでは「演出くじ」と言われていましたが、あえてここでは演出カードと言い換えておくことにします。

というのは、あまりにも各カードの再利用の度合いが高すぎたからです。くじと呼べるほど使い捨てられていません。

全公演に必ず含まれた[オールマイティ]を除いた開幕の14枚+追加の3枚で1公演あたり17枚、4日間×昼夜2公演で、のべ136枚の採用があったわけですが……おそらく、種別を挙げても到底100種*3には至らないでしょう。ともすると70種すら下回りかねない。それくらい、同じ演出カードが再利用されていました。

中でも特に露骨だったのは、[あっちむいてほいほいほい]と、[第3者が乱入する]でしょう。ふつう、「だいさんしゃ」と入力して変換すると「第三者」になるので、この表記の投稿ばかりが複数登場するのは不自然です。あとはやはり[笑え!]。ほぼ皆勤賞なんじゃないかしら。おそらく5公演以上は出てると思いますよ。


この事態をどう受け止めるかはかなり迷いました。…が、おそらくこんなところだろう、という仮説はあります。それは、くじを引いたのち、演出要素として表現を丸めて解釈する……という工程があったのではないか、ということです。

実際のみなさんの投稿が「誰か来る」「無関係な人の登場」「彩-LIVEが入ってくる」などの文言になっていたところを、すべて[第3者が乱入する]という形に丸めてしまう。そういう編集が入っていたのであれば、あれほどの再利用が出たのもうなずけます。

この推測がもしも正しいとすれば、「どんなに細かな表記や表現に違いがあったとしても、本質的な演出要素の括りで束ねられてしまう」ということと同義です。しかも加えてそのすぐ隣に、「どんなに似た表記であっても、カードが違えば演出要素としては使い分けられてしまう」という事態までも発生してしまいました。

例えば初日の昼公演では[秘密を告白する]と[正体を告白する]が別の扱いになっており、特に後者の[正体を告白する]で梶 裕貴さんが凄まじい展開に踏み込むんですけども、これは、“秘密”という語と“正体”という語の自由度、語義の範囲の差が顕著に出た事例と言えます*4

投稿された実際の文言を、丸めたり、丸めなかったりしているのであれば、そのあたりの編集のありかたについても、なんらかの解説があってほしい、と感じました。その解説があるとないとでは、演出くじの位置づけ自体が少々変わってしまうと考えます。

なお、「上記の予想は全部外れていて、ちゃんと投稿どおりに使ってるんじゃないの?」という疑念に関しては、これはもうほぼ疑う余地なくNOであろう、と判断しています。なぜなら、[カード2枚引き直せる]という演出カードがあったから。しかも一度だけの利用でさえありません。少なくとも2回は確認しています。

公式サイトに設置された投稿フォームをもちろん私も見ています。あのビジュアルの演出くじ欄に、こんな文言を投稿する方が複数いるとは、ちょっと思えませんね。

「演出くじ」が演出カードに丸められているとしたら

ここからはいささか確度の低い考察となります。考察といっても、作劇や舞台演出に関する話題であって、むしろ一般論に近くなると思いますけど。

さて、あらためて考えるに、そもそも“演出”というのは、舞台においてはある種の機能であって、原理的になんらかの効果をもたらすものと言えます。や、この書き方だと何を言ってんだ、って感じになりますね… つまり、“演出”は「なんらかの目的を果たすためのアイテム」である、と見ることができます。

ファイナルファンタジー』等のRPGを参考例に持ってきましょう。ゲーム内にはキャラクターがいて、彼らには体力=HPがあり、アイテムとして回復薬が設定されていますね。『ファイナルファンタジー』シリーズにおいては、ポーション・ハイポーション・エクスポーション*5…と効果が増していくアレです。この3種のアイテムは、「HPを回復する」という点においては同型で、効果の大小はあれど、カテゴリは同一と言えます。

…そう、これなんですよ。“演出”においても、このような「機能の大小はあれど、カテゴリは同一」がありうる。ありうるはずなんです。

強いて、この機能・カテゴリだけに注目を限定して“演出”を見てみれば、それは例えば「新規要素の追加」「既存要素の変化」「外界(舞台外)の情報の追加」「登場人物の関係の進行」「人物の描写」などに大分類が可能です。

逆に、ある程度機能が似通った演出を羅列してみれば、

  • ノローグを言う
  • 突然寝る
  • トイレに行く

などは「登場人物が一時的に独りになる」という点については同種の性質を持っています*6

などなどを踏まえて……。
もしも15枚の演出くじを完全にアトランダムに引き、手を加えないとすれば、表層の文言=機能の大小がどれだけ違っても、15枚がほぼすべて同カテゴリの演出になってしまう、という事態が考えられます。どころか、検証会で実際にそうなった可能性すらあります。

そして、「これは回らんぞ」と見なされれば…… まあ、そりゃあ、多少の編集、伐採・整頓はしますよねえ……みたいな。

とまあ、そんな推測をしているんですよ。どうなんでしょうね。

今回こそアンコール・ビューイングが即座に欲しかった

ここまでつらつらと振り返ってみてつくづく思いますが、とにかくZEROではアンコール・ビューイングが即座に欲しい。ひとつの公演内に持ち込まれている要素が、複層的で、かつ多いからです。特に、追加された演出カードについては、「劇中、いつ使われたか」を正確に確認する方法が、アンコールかディスクパッケージかしかありません。そして、アンコールまで時期が空いてしまうようでは、結局初見と変わらないぐらいまで忘れてしまう。

もともと私は、AD-LIVEに限らず、本公演から間をおかずに同一の公演を観ることがすごく好きです。これが非常に楽しくてですね、わりと細かいところまで覚えているうちにもう一回、しかも観客席側の反応はあらためて生で観られる、というのは、他に代えがたい唯一無二の体験なのです。

これが、現在のような「本公演からアンコールまでの期間が長い」という形では、できないんですよねえ! ほんとにもう!
……なので今回、1月18日公演のアンコールが即座に行われるのが本当に嬉しくて、そりゃもう速攻でチケットを押さえました。2回観るんですよ、2回!




だいたいこんなところでしょうか。
AD-LIVEについて、どんなことを語り、考えたとしても、すべては確認しようもなく、無意味なのかもしれません。それでも私は考えてしまうし、それを抜きにしては、会場に向かう理由も薄れてしまうような気がするので……これからもAD-LIVEと仲良くするために、その考えの物量はもはや《肥満型》*7だろ!と言われてしまうのも辞さず、考えたり書いたりしていきたいと思います。

*1:あとで掘り下げます。

*2:個人の感想ですが、2016はメリハリもあって出来がよいと感じる一方、2018は少々退屈です。

*3:今回、どうしても行けなかった1公演を除き、計7公演を確認しています。

*4:正確には、語義の範囲だけでなく、さらに加えて劇中文脈の範囲という拘束も受けます。アフタートークで梶さんが「正体として呼び出せるキャラクター」についての思案を解説してくださっているのがわかりやすいですね

*5:余談ですが、最初はここを『ドラゴンクエスト』としようと思い、「やくそう・上やくそう・特やくそう」と書くことを考えてやめました。

*6:それ以外の差はもちろんありますが、大きな機能には重なりがある、ということが主旨です。逆説的に、通常の作劇においては「ここで登場人物Aに独りになってもらいたい。ではBにはどういう演出で退場してもらおうか?」という発想になっています。

*7:モバ-LIVE引いてみた。ひどい。