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金銭の幸福とグロテスク~お金を払って悪いのか、払わなくて悪いのか

タイトルからして不穏ですね!

最近のオタク*1は、「公式にお金を払う」ことが好きになっていると思う。

この「好き」というのも、ものすごく複合的な概念で、「公式にお金を払うのは良いこと」だとか、「公式にお金を払うのは楽しい」だとか、「公式にお金を払うのはファンの義務」だとか、いろいろな形に分解が可能なのだけれども、ベクトルとしては推奨される行動、ポジティブなニュアンスをはっきり帯びているに違いない。

というのはもちろん、我々の今の社会は資本主義的なサイクルをマネーでもってぶん回すことで駆動していることからくるもので、それはつまり、「物事ってやつぁ、価格〈Price〉にコスト〈TIme&Money〉を注ぎ込んで、喜び〈Value〉を得る、という仕組みになっているんだぜィ。だから、その仕組みを自覚的に活用していくんでさァ」みたいな、わりと順当な話ではある。

ただ、こういう価値循環の仕組みが現代ではもはや筒抜けになって、消費者側がその循環の主流に自覚的になると、その傍流に対して辛らつになる、ということが起こるのではないだろうか。

端的に言うと、茶の間は引っ込んでろ、理論のことなんですけど。

ここでいう「茶の間」というのは、オタク界隈で蔑称的に言われるもので、現場に行かない=茶の間にいる、お金の使い方が荒くないファン層を指しているやつです。


価値循環のサイクルのメインストリームがよくコストを注ぎ込む層であるのは確かにしても、そもそも価値循環のサイクルとは一種類しかないものではないから、どっぷり楽しむ層、比較的ライトな層、なんならほぼノーコストで楽しむ層というのは必然的に発生しえますね。それはいい。ビジネス的な観点から言うならば、その「ノーコストで楽しむ層」という裾野のような人々を、どのようなステップでメインストリームに接近させていけるか、というような取り組みがありえて、それもそれで正しいし、とてもよくあること。

だてにアニメは無料放送ではないってことだったりとか、音声作品にはとてもしょっちゅう試聴がついてたりとか、そういうものだって、まずはノーコスト的なステップ1でしょう。重要なのは、そこからライトなステップ2、しっかり関わるステップ3にどうナビしていけるか、どう乗っかっていくかだったり。


私はすっかり価値循環のサイクルに取り込まれていて、だからこそ「好きな作品・アーティストにはコストを支払っていこう=ステップ2に進んでいこう」と考えるほうだ。だからこそ、自分がものすごくどっぷりと、コストをかけてステップ3まで楽しんでいる何かを、どこかの誰かがノーコストで、ものすごく美味しく――都合よく――ステップ1だけを楽しんでいるのを見かけると、「もうちょっとお金払ってくれたら嬉しいのになあ、サイクルが続いてほしいから」などと考えてしまったりすることも正直ある。

そして、「ああ、こんなこと考えたくないなー」と思ったりして、そこでそれ以上は考えない。人それぞれの楽しみ方やコストのかけ方があっていいのだ。絶対に。だって私だって、ほかの何かはライトに、あるいはノーコストに、つまみ食いしているんだから。

お互いさまってやつさ。


……と考えていて、それでいいはずなのですが、これがたまに逆に牙をむいてきたりすることがあって、これはもうじつに面食らう出来事ですよ。
共通の好きな作品について話していたのに、「そんなお金のかけかたしてるのには着いていけない」的な方向の、うっすら腰の引けた感じの反応が急に来ることがある。「すごいねー」って言ってくるやつ。

別にいいんですよ、こちとら礼儀礼節にのっとって、無理にでも着いてきてくれなんて絶対に頼みませんから、あなたはあなたで、ライトな楽しみ方で楽しんでいてどうぞ! 私とあなた、どうやら乗っかっているステップが違うので!
……と、そっと分断をはかってみるのですが、どうやらその手の人のさらに一部は、こちらの全力の(コストがかかった)喜びに魅力を感じているらしいことがあります

端的に言うと、おこぼれを欲しがるっていうか。

グッズを代行してくれとか、余ってたら(定価付近で)売ってくれとか、楽しそうなイベントには同行させてほしいみたいだったりとか。
音源コピーさせて、とかみたいなのもありますよね。


や、厳しいですね。連動購入特典*2の音源を聴かせてくれ、でもけっこう厳しいものですよ。こっちに目に見える、明示的な損がなくっても、やっぱりそれはフリーライダーじゃないですか。

ステップ1だけエンジョイしているノーコスト層に、ステップ3のものを手軽にねだられても、それには応えられないと思うんだ。


布教活動のためだったら、たとえばステップ2くらいのものをほぼノーコストでステップ1にいる誰かに提供してみたり、そんなこともありうると思うけれども、ステップ3のものはやっぱり、価値循環のサイクルのメインストリームを共有している誰かとでないと、分け合えないのだろうな、と思うのです。

お金を払う/払わないの軸ではなく、得られる喜び〈Value〉とのつり合いで考えていければいいなと、そんなふうに思った次第でした。

*1:「オタク」という表現は本当は正確ではないと思うが、そのほうが通りがいいのでそう書く。アニメや漫画、ゲームや声優、舞台その他が好きだと自認する層のこと

*2:こういう場合の連動購入というのは、だいたい合計で1万5千円を超えてくることが多い。

一日の区切りは午前◯時

あなたの一日の区切りは何時ですか?

や、一日の始まり、午前0時の話ではなく。今時のアプリゲームには、日付区切りの概念があるじゃありませんか。ある一日と、別の一日を区切る、その境目になる日付変更時刻は、もはや個々人によって異なるのではないかとちょっと思っています。

ざっと調べたところ、

という感じでした。しかし『白猫』の午後4時とは何なのか。しかも以前は午前2時だったり、午後3時だったりしたそうですよ、『白猫』。同じくコロプラの『魔法使いと黒猫のウィズ』は午前3時らしいので、別にコロプラで統一ってわけでもないんですね。

私は諸事情あってほぼ昼夜逆転型で過ごしており、午前4時や午前5時は通常まだ活動している時間帯ですから、(のんびりと暇なときは)深夜から日付区切りが連続で訪れる感覚があって、「あ、日が変わった」「また日が変わった」と思い立ってはぽちぽちとアプリにログインしつつ、こいつぁ現代的だなあ、としみじみする次第です。

もちろん、一般的には深夜帯には多くの方が寝ているわけで、午前3時だろうが午前4時だろうが、多くの方にはあんまり差はないのかもしれません。朝、起きた時には必ず日付が――カレンダーでも、アプリでも――変わっている、というのがマジョリティな感覚だと思いますが、でも午前5時区切りのアプリなんて、ちょっと早起きすれば「あっまだ前日!」なんてこともあるのでは。そう、それこそ、イベントで物販に並びたいから始発、なんて時とかね!

そんな感じで、今や一日の区切りは何度も何度もあるのが現代、というやつなんでしょうね。「あなたにとっての一日の区切りは何時?」なんて質問にも、もしかしたらハマっているアプリゲームの存在がちらっと見えるかも!

「それにしても」の使いやすさ

音声ドラマが好きです。気に入った音源は猛烈に――1トラックにつき合計で数時間ぐらい*1――リピートするので、台本丸暗記のレベルで耳になじんでいる場合もあります。

そんな音声ドラマの数ある台本の中で、特に女性向けシチュエーション音声ドラマで稀によくある言葉が「それにしても」です。

なんで「稀によくある」という表現を使うかというと、すごく使用する脚本家さんもいれば、ほとんど使っておられない脚本家さんもいるためで、出てくるトラックにはものすごく出てくるし、出てこない時には長らく耳にしないからなんですが、そうですねえ、天秤としては「よく使われる」のほうに傾くのではないでしょうか。


ところで、日常生活で「それにしても」って口にする機会ありますか? 私はほぼないです。なぜなら、大体の場合の「それにしても」は、前の話を受けているのに話題を転換もしてしまう、という、見ようによっては自己中心的な話法だからです。これを思い切りよく使えるのは、実はフィクションの会話ならではなのかもしれません。

いやそれにしても、音声ドラマCDって根強く制作されていますよね。乙女ゲームの特典では本当によくついてきますし……。

…………ぐらい、強引に話題を切り替えてしまえる強力なワードだと思うのです。


この強力なワード「それにしても」が、女性向けシチュエーション音声ドラマの台本に頻出する、というのが非常に興味深い。

シチュエーション系音声ドラマの特徴として

  • 表現形式が音しかない
    • 視覚的な説明はできない
    • 場面転換時には説明的な音や言葉が必要
  • 聞き手が作中の登場人物に同化しているとみなす場合が多い
    • 作中音声とは言葉での掛け合いができない
      • 作中の人物は、対話に参加している二人ぶんを一人で喋らなくてはならない

というあたりが関係しているような気がします。

作品としては話を展開させなければならないし、それでいて、その展開のための”転”は、聞き手が同調している人物からは出てきようがないので、作中に実際にいる誰かが常に自発しなければなりません。

そこで、話題を少し変えつつ進行させるために「それにしても」なのではないか、というわけです。音声ドラマ作品として成立させるために、キャラクターがひとくさり分のまとまりを語り終えたら、次のひとくさりにスムーズに進むために「それにしても」と話題を紡いでいく、というような。

……というようなことを思いついてから、音声ドラマで「それにしても」が出てくるたびにニコニコしています。それなりの頻度で耳にするんですよ、これがまた。特に登場人物が一人のものには登場しがちで、ますます興味深い。音声ドラマという媒体ならではの制約・事情が表れている要素として、たいへん好きです、「それにしても」。


……それにしても、私はちょっと音声ドラマを聴きすぎのような気がしますね。

ブログも、シチュエーション系音声ドラマも、相手からの明示的*2応答がない実質的一人語りという点は同じで、つまりこうしてブログの文章でも、「それにしても」は便利なんだな、と思う次第です。

*1:BGM不要のアプリ操作時や、移動中など、あらゆるタイミングで再生するので、見かけ上の可処分所得に対して過剰な合計時間ですよね。

*2:より正確には「同じ次元からの」でしょう。

音楽配信に歌詞データ(その他テキスト系情報)が含まれないからCDを買っている

最近は個人的ヒット作、古川慎「本日モ誠ニ晴天也」の試聴動画をよく流しています。

www.youtube.com

パッケージ版の発売が延期となってしまった本作ですが、実に気になるのはその歌詞です。真崎エリカさんの雰囲気たっぷりの作詞をしっかり堪能したいのに、歌詞の文字列が見られる見通しが立ちません。

アニメ『啄木鳥探偵處』(公式サイト)OPを観てみても歌詞の表示はなく、古川氏のムーディーな歌い方の影響もあって細部の発声、音の輪郭は決して明瞭くっきりというわけではないと思います*1。そこが良さでもあるのですが、私としてはやはり気になるポイントです。

音楽の聴き方はさまざまで、ちょっと前にTwitterで話題になった音楽に関する話の中では「ほとんど言葉は聴きとってないなあ」という方もいて、それはもちろんそれで非常に素敵な聴き方に違いない。そう自分でわかっていても、歌詞、その表記を満喫する派なので、やっぱり少々物足りない。

この試聴動画の2曲目「パトスのカタチ」の中に、「今《らしん》の情熱で」という個所があるんですけど、これが裸身なのか羅針なのかは大きな違いだと思うわけですよ…… たぶん裸身だと思うんですけど*2

もともとの発売日、5/13に配信は解禁してくれるそうですが、配信データでは歌詞の文字表記は見られないんだよな、と思うと、惜しくって惜しくって、ディスクパッケージの発売を待ちます、となってしまいがち。歌詞のみならず、作詞・作曲・編曲スタッフはもちろん、めちゃくちゃ愛するアーティストだとその他のスタッフクレジットもしっかり目を通していたりするので、音だけあればいい、ってわけにはいきません。なお、歌詞配信サイトは参考しつつも信用はしていません。誤変換とかがわりとしょっちゅうありますからね……

やはり、配信でブックレットのデータPDFも合わせて売ってくれないかなあ、というのが希望ですよね。もちろんそこでもお金取ってほしいですし、文字情報は見たい!

*1:冒頭の「こんにちは 五文字での」の時点で人によっては聞き取れないのでは……

*2:直後の「口火を切った刹那から」が唇に掛かり、子音でもKとSを使ってKissを掠めているところが素晴らしいと思います。頭韻を踏んで響きをまとめるテクニック、同音異義語を掛詞に多用する感覚など、音そのものにも繊細なアプローチがある方だと思っているので、すべて意図しているのかも?

作品の楽しみ方に〈探索型〉と〈観光型〉とがある説

みなさん、今日もゲームしてますか! そして、攻略情報、見てますか!


……というわけで、幅広く「ゲーム」を遊ぶことを考えたとき、「攻略情報を見るか、見ないか?」というポイントがあると思うんです。作品のタイプや、作品(のとある場面の)難度*1に影響されたり、もちろんネタバレの大きさとか、そういう、いろんなものの兼ね合い、複合的な判断で、攻略を見たり見なかったりするのではないでしょうか。

例えば謎解きゲームにおいて、攻略情報をすべて見てしまえば、もはや実質ノベルだ!とか、ノベルゲームにおいて正解選択肢を全部見てしまえば、それはもう音付き小説なのでは!とか、攻略情報がゲーム性を骨抜きにしてしまうパターンがあると思います。

一方で、いくら攻略情報、あるいは攻略動画を観たところで、手もとの操作が追いつかず、「できる気がしない!?」ってこともありますよね。その場合は、攻略動画なんて単なる見本、お手本にしかすぎません。


さて、私がたびたび取り扱う「乙女ゲーム」には、攻略情報の一歩手前に、こういうのがあります。

オススメの攻略順問題。

これがもう、実に根強い。攻略情報そのものは見なくても、これを確認している方は多いのではないでしょうか。
ネタバレは見たくない。でも、まかり間違って興ざめな順番で攻略してしまったらもったいない。
そんな思いが、「オススメの攻略順は?」という問いになって出てくるのだと思います。

物語の核心に迫る――つまり作品の物語の全容がまるっと見えてしまう――ポジションの人を後回しにするような感じでオススメされる場合が多い気がします。なんとなく。


この「オススメの攻略順」というのが、ほんとうにナビゲーターみたいだなあ、と感じて、それでふと思ったんですよ。作品に触れるにも、〈探索型〉のアプローチと〈観光型〉のアプローチがあるのではないか、と。これは別にノベルゲームに限った話ではなくて、攻略情報を片手に、次に表れるものを知りながら進めていく場合は〈観光型〉でしょうし、ネタバレを極力避け、一体何が起こるのか分からず待ち構えながら進んでいく場合は〈探索型〉と言えるでしょう。

〈探索型〉と〈観光型〉はオンオフというか、排他的とは限らなくて、謎解き部分は攻略を見るけど、ストーリーはネタバレを一切見ないとか、敵のステータスは全部見るけど倒し方のコツは見ないとか、複合的なアプローチになりうるはずです。重要なところは自力で頑張るけど、小さいあれこれは見逃したくないから攻略を見る、とか、そういうバランスもありえますよね。

〈探索型〉のほうが、自分であれこれ探って確認しなければならない分、回り道やロスも多くなるはずで、基本的にはかかる労力は〈探索型〉>>〈観光型〉だと思います。

そして、しばしばその〈探索型〉のコストは、大きすぎる。

これは私個人の話ですが、大体の場合、自分が本気で大好きになりそうな作品は〈探索型〉にしたがります。時間を費やして本気で考えることが楽しいからです。一方で、ゆるく、手軽に、あるいは時間がない中でも隅々まで楽しみたい時には、攻略情報をどんどん参考にし始めます。あとはあれですね、失敗できない系ソシャゲとか。〈観光型〉だから愛が薄いってこともなく、とにかく時間や労力のロスを嫌って、わき目もふらずに美味しいところを逃さず味わいたい!という時も、〈観光型〉アプローチを併用するんですよね。


と、そんなことを考えてました。
今の自分が、ある作品に対して触れようとするとき、自分が〈探索型〉と〈観光型〉のどちらのアプローチを取ろうとしているか、どちらを取るのがより楽しめるか?と考えることで、作品との付き合い方がより自覚的に、スマートになった気がします。


ところで、AD-LIVEは*2、即興劇という性質上、必然的にものすごく〈探索型〉アプローチに寄らざるを得ません。〈観光型〉にしにくいんですよね。ここ、AD-LIVEを人に紹介するうえではすごく難しいポイントだと思っています。

AD-LIVEプロジェクト公式が自らセレクションをして提示してくれる機会がありました*3が、あの時に思いました、彼らはこの難しさを分かっているに違いない、と……。だってあまりに素晴らしいセレクトでしたから。完璧でした。


そんなわけで、AD-LIVEプロジェクトには、どこかで大きな〈観光型〉アプローチの手はずを整えてほしいんですよ。この際、全部の公演のレポートをまとめたガイドブックとか、いいと思うんですけど!

*1:難易度、としないのは、易しさよりも難しさに力点があると思うので。

*2:私はほんとうにAD-LIVEの話ばかりしていますね。楽しくってつい。

*3:ニコニコ動画の一部無料公開などの形態。ファミリー劇場での放映はひらたく全部やっているのでまた別もの。

工夫と不謹慎のグラデーション、あるいはAD-LIVE2020 無観客公演の可能性を考えてしまうこと

日本どころか世界中が揺れるさなかであります。
当然私も、そしてあなたも、この圧倒的な危難とは無関係でなく、不安になったり、楽しみにしていたものがなくなってしまったり、そもそもご自分の生活にだって大きな影響が出ていることでしょう。おつかれさまです。たいへんですよね…。

身体も心もどうにも休まらず、でもやれることと言えば極力ひきこもるぐらいで、そうしてひきこもっていれば春の日差しはうららかで、家の中にいるばかりでは暇も感じますし、となれば、外のエマージェンシー具合と、目の前に広がる閑散とした風景の落差が身に迫ったり、あるいは身に迫らな過ぎて実感がどうにも伴わなかったりするのではないでしょうか。

あるいは、まさに危難の渦中に呑まれ、ご自分の仕事がまさにこの緊急時に対応するために忙しくなった方も、お読みになっている方の中にはおられるのでしょうか。頭が下がります。今、まさに働いている方々は、社会の最前線でこの危難に立ち向かっている方です。あなたが支えているものはとても尊いものであると、私はよく知っているつもりです。本当にありがとうございます。


その苦労の重さや形に個々人差はあれど、なんにせよ私たちはそれぞれに日々、毎日をつむいでいかねばなりません。ご飯は食べねばならないし、トイレにも当然行くし、できればマスクは欲しい。そして、毎日をつむいでいくためには、精神の余裕、豊かさ、美味しいものが美味しかったり、楽しいものが楽しかったりすることもやっぱり必要です。延々とふさぎ込んでいるばかりではとても持ちませんから。

さらには、もしもできるならば、その「毎日をつむぐ」ことが、自分たちの好きなあれこれ、あちらこちらにも巡るようにありたいものです。極力なじみの店で食事をテイクアウトしてみたり、支援を求めるゲームセンターに投げ銭したり、こんな時だからこそ通販ででも買い物をしたりも。

私も、「お互いが生み出すものをやり取りしながら生きていく」ということを、あらためて見つめています。日々のスタイルを切り替えたからこそ、今まで自然に支援できていたことも積極的にならないと維持できなかったり、あえて立ち向かったりしないといけない部分は出てくるし、あるいは、切り替えたからこそ生まれる新たな何かの予感も、実はやっぱりあったりするのだと思います。

今回の一件をポジティブに捉えることはまだまだ、どころか今後も全くできないかもしれないけれど、環境が変わって生まれくるもの、あるいは、制限のもとだからこそできること、挑み、成し遂げ、輝きを放つこともまた、まったくゼロではないはずです。


いくつかのテレビやラジオ番組が、リモート収録を始めたと聞き及んでいます。収録チームを急遽集めて無観客で上演した音楽劇『VOICARION』が映像配信を来月には行います。実は私もいままさに本職のほうでちょっとした挑戦が始まっていて、それはもちろん前者ふたつに比べれば大したことではありませんが、まあでもそれなりに、誰かの日常的な何かを維持するためのほんのきれっぱし程度には存在するであろうものです。

結局のところ、今まで泳いでいた海でまだ泳いでいるし、もしかしたらその仕事は見ようによっては「不要不急」かもしれないけれども、いやいや、結局のところ仕事って「毎日」そのものでして、できる範囲ではやっていったほうがいいと思うんですよ。まずは「社会」を維持できるよう人と距離を取ることを優先しながらも、「毎日」を維持するための普段の活動も少しずつね、というバランスで。



で、AD-LIVEの話です。唐突でごめんなさい。

ぶっちゃけてしまうと、今、私は今年のAD-LIVEの可能性を考えることで遊んでいます。それも、無観客であることを覚悟したAD-LIVEの可能性を、です。
AD-LIVEはそもそもライブビューイングとの関わりが既に強く、無観客(配信中心)への切り替えのやりやすさに関しては、数ある演劇コンテンツの中でもかなり適して――あるいは準備が整って――いるほうだ、と言ってもいいと思います。

もちろん、単純に今まで通りの映画館でのライブビューイングというわけにはいかないでしょう。第一それ以前に、スタッフの皆様、出演者の皆様の安全のことを考えれば、観客だけ排したって意味は薄い、スタッフが一堂に集まるのはリスキーだ、と考えてしかるべきだとも。
それでも、「観客がその場に絶対に居ないことがわかっているなら、だからこそ逆に」やれることがある、という視点で考えること自体は、可能だと思いませんか。

例えば3人構成にしておいて、途中で1人が実際に観客席に降りて観客の立場に収まってしまう(=お互いに見せ合う形を作り上げる)こともできるし、ハンディカメラ中心の画面作りだっていけそうですね。カメラを前提にした構造をうまく利用したら、他の演者に知られないモノローグを観客向けに演じることもできるようになります。派手な隠し事ができちゃいますね。
こうして、ばーっとフラッシュアイデアで並べるだけでも、可能性は山ほどあります。無観客で配信が前提の舞台演劇、という事例自体がそもそも少なそうで、だったら、あらゆるものが実質バージンスノーになりえるのでは?
そう考えるとどうしてもわくわくしちゃって、AD-LIVEがどんな可能性を踏みしめられるのか、想像は尽きません。


もちろん、この危難が一刻も早く終息するのが何よりで、そのための努力は私も日々惜しみません。公演の日までに事態が収まって、何事もなく、今までの日常のように公演が行われることが一番だし、それを心より願います。

ただ! それはさておきですよ!! このような強烈な制約が一時的とはいえ発生している今、その条件下だからこそ生み出されるかもしれない珠玉の工夫を想像してしまうのですよね。……だって、そんな決死の抵抗、強引な工夫の可能性をですよ、まったく検討すらしないままに「絶対にやるべきではない」と中止を決断するでしょうか? あの総合プロデューサーが?

挑むための工夫、想像、検討を、考えないわけはないと思うんですよね。それが仮に一瞬で傾く天秤であったり、実らない可能性であったとしても。

だって、やっぱり私たちの生活にはエンターテイメントが必要だし、彼に――彼らにとっては、そのエンターテイメントへの挑戦こそが「いつもの毎日」なのでしょうから。

私達がこれから過ごす日々は厳しく、もしかしたら今、漠然と想像するよりも、もっとひどく重く垂れこめてしまうかもしれないけれども、それでも私達それぞれに、彼らにもそれぞれ「毎日」があり、「毎日」をそれぞれに生きていくしかありません。悲しみ、苦しむ誰かからすれば「考えることすら不謹慎だ」と見えるにしても、「けれど、私にとってこれは”生きる”ことそのものなんだ」と、向き合っていく瞬間も、時にはありえていいと私は思います。


最近の毎日はしんどいですね。これから、きっともっと激しくしんどくなる瞬間が来てもおかしくない。
それでも、だからといって、楽しんで悪いってことにはならないでほしいなあ、と思っています。

というわけでした。みなさんも、やっていきましょうね。

私は最近、『Death Stranding(デス・ストランディング)』(PS4公式サイト)を始めました。津田健次郎さん演じるサム・ポーター・ブリッジズとの長いお付き合いの予感。まだまだ序盤ですが、めっちゃくちゃ面白いです。

Nintendo Switchをお持ちの方には、4月30日配信開始の『グノーシア』(ダウンロード専売・PS Vita版あり。Switch版公式サイト)を全力でオススメ。最高だからホント。


それと、このブログでは、今後コロナ関連の話題は極力取り扱わないことにします。
真剣に考えてくださる方々に心からの敬意を向けつつ、ただひとりの私個人としては、「そういうのから気持ちを緩めていくこと」に向き合っていきたいからです。

そんなわけで、今後はちょっとずつ、些末でポジティブなネタを頻繁に投稿していけたらいいな、と思います。

実はずーっと森久保祥太郎さんについて考えて、考えて、まとめてるんですよ。優に1万字超え。……些末とは??

AD-LIVE ZEROについてちょっと書く〜各取り組みの効果と結果をつらつらと

あけましておめでとうございます。2020年も書いたり書かなかったりしていきたいです。


さて。徳島公演が思わぬ形で決着したために、なんとなく機を逸していたテキストがありまして。

あらためての追加公演も間近に迫ったということで、下書きで眠っていたものを供養的に引っ張り出してみようかと思いました。大部分は徳島公演の中止の直後ぐらいに書いてたものです。

AD-LIVE 2019 あらため AD-LIVE ZEROで見えたことについて。

くじが事前に見られること〜転生トラック的省略のあり方

冒頭のトークコーナー、および終劇後のアフタートークが設定されたように、そもそも公演全体の枠組みが違ったAD-LIVE ZEROです。開幕にキャラクターの情報や舞台設定がある程度晒されているだけでなく、演出要素*1も「くじ」の形にしてオープン。劇中、30分経過で3枚追加する、という伏せカードはあったものの、これが莫大な威力を発揮した例はさほど多くなく、かつ、すべての演出カードはもれなく使用されなければならなかったので、観客側からすると追加カードの意義はそんなに大きくなかったと思います。少なくとも、初めて観劇した時点では「よくわかんなかったな」となりやすいと思うんですよね。

さて、まず触れたいのは、「設定があらすじに書いてある」ゆえに、劇中で説明しなくてもよくなる、という構造です。
以前、当ブログでは「AD-LIVEでは約束が難しい」という趣旨のことを書きました。

talko.hateblo.jp

一方、今回のAD-LIVE ZEROのように、事前に一覧で情報を開示してしまえば誤解の余地もないし、すでに決定・約束された事項として取り扱ってもらえます。つまり、冒頭のテンプレ的情報交換、世界観のベースの構築・確認を一部省略できる。

このような省略を生かした例としては、見出しの通り、「転生トラック」が挙げられると思うんですよ。「なろう小説」に代表される、ネット連載型ノベルの一大ジャンル、異世界転生ものにおいて、主人公が異世界に転生するきっかけを作るのによく登場するのがトラックによる交通事故です。ゆえに、このトラックを指して俗に「転生トラック」と言います。

転生トラックが流行した理由は容易に了解できます。それは、異世界に転生するまでのくだりで個性を出す必然性は通常なく、とにかく早く異世界の場面に入りたいから異世界に転生して、その異世界を描写するのが作品のメインであるからには、主人公には可及的速やかに、しかも文句の余地なく現世から退場してもらいたいですし、その場面でエキセントリックなことをする必要はないわけですよ。雑なテンプレで構わない、どころか、読み飛ばせるぶん、雑であるほうが良い、とすら言えます。一瞬で通過したいくだりなんですから。

同様に、AD-LIVEの舞台においても、「はじめまして」から「ここどこですか」「あなたはどうしてここに」などの冒頭場面を探り探り、言い換えれば約束できるほどていねいに積んでいくとなると、いささかくどく、テンプレ的になる可能性は高いと言えます。90分より短い60分の尺でドラマを展開させる条件下では、積極的に省略していけるポイントだったということだったのではないでしょうか。

もっと極端な例としては、AD-LIVE 2016の開幕シークエンスや、2018の冒頭の読み上げなどがあります。演者によるアレンジがまったく入らないため、全公演が完全に同一の進行をしますし、それにしては尺が長いですから、通い詰めるぐらい通った人にとっては飽きやすいポイントだったかもしれませんね。*2

演出要素の類型と、使い物にならなかったあれやこれ

はい、私的には問題の項目です。冒頭のトークコーナーでは「演出くじ」と言われていましたが、あえてここでは演出カードと言い換えておくことにします。

というのは、あまりにも各カードの再利用の度合いが高すぎたからです。くじと呼べるほど使い捨てられていません。

全公演に必ず含まれた[オールマイティ]を除いた開幕の14枚+追加の3枚で1公演あたり17枚、4日間×昼夜2公演で、のべ136枚の採用があったわけですが……おそらく、種別を挙げても到底100種*3には至らないでしょう。ともすると70種すら下回りかねない。それくらい、同じ演出カードが再利用されていました。

中でも特に露骨だったのは、[あっちむいてほいほいほい]と、[第3者が乱入する]でしょう。ふつう、「だいさんしゃ」と入力して変換すると「第三者」になるので、この表記の投稿ばかりが複数登場するのは不自然です。あとはやはり[笑え!]。ほぼ皆勤賞なんじゃないかしら。おそらく5公演以上は出てると思いますよ。


この事態をどう受け止めるかはかなり迷いました。…が、おそらくこんなところだろう、という仮説はあります。それは、くじを引いたのち、演出要素として表現を丸めて解釈する……という工程があったのではないか、ということです。

実際のみなさんの投稿が「誰か来る」「無関係な人の登場」「彩-LIVEが入ってくる」などの文言になっていたところを、すべて[第3者が乱入する]という形に丸めてしまう。そういう編集が入っていたのであれば、あれほどの再利用が出たのもうなずけます。

この推測がもしも正しいとすれば、「どんなに細かな表記や表現に違いがあったとしても、本質的な演出要素の括りで束ねられてしまう」ということと同義です。しかも加えてそのすぐ隣に、「どんなに似た表記であっても、カードが違えば演出要素としては使い分けられてしまう」という事態までも発生してしまいました。

例えば初日の昼公演では[秘密を告白する]と[正体を告白する]が別の扱いになっており、特に後者の[正体を告白する]で梶 裕貴さんが凄まじい展開に踏み込むんですけども、これは、“秘密”という語と“正体”という語の自由度、語義の範囲の差が顕著に出た事例と言えます*4

投稿された実際の文言を、丸めたり、丸めなかったりしているのであれば、そのあたりの編集のありかたについても、なんらかの解説があってほしい、と感じました。その解説があるとないとでは、演出くじの位置づけ自体が少々変わってしまうと考えます。

なお、「上記の予想は全部外れていて、ちゃんと投稿どおりに使ってるんじゃないの?」という疑念に関しては、これはもうほぼ疑う余地なくNOであろう、と判断しています。なぜなら、[カード2枚引き直せる]という演出カードがあったから。しかも一度だけの利用でさえありません。少なくとも2回は確認しています。

公式サイトに設置された投稿フォームをもちろん私も見ています。あのビジュアルの演出くじ欄に、こんな文言を投稿する方が複数いるとは、ちょっと思えませんね。

「演出くじ」が演出カードに丸められているとしたら

ここからはいささか確度の低い考察となります。考察といっても、作劇や舞台演出に関する話題であって、むしろ一般論に近くなると思いますけど。

さて、あらためて考えるに、そもそも“演出”というのは、舞台においてはある種の機能であって、原理的になんらかの効果をもたらすものと言えます。や、この書き方だと何を言ってんだ、って感じになりますね… つまり、“演出”は「なんらかの目的を果たすためのアイテム」である、と見ることができます。

ファイナルファンタジー』等のRPGを参考例に持ってきましょう。ゲーム内にはキャラクターがいて、彼らには体力=HPがあり、アイテムとして回復薬が設定されていますね。『ファイナルファンタジー』シリーズにおいては、ポーション・ハイポーション・エクスポーション*5…と効果が増していくアレです。この3種のアイテムは、「HPを回復する」という点においては同型で、効果の大小はあれど、カテゴリは同一と言えます。

…そう、これなんですよ。“演出”においても、このような「機能の大小はあれど、カテゴリは同一」がありうる。ありうるはずなんです。

強いて、この機能・カテゴリだけに注目を限定して“演出”を見てみれば、それは例えば「新規要素の追加」「既存要素の変化」「外界(舞台外)の情報の追加」「登場人物の関係の進行」「人物の描写」などに大分類が可能です。

逆に、ある程度機能が似通った演出を羅列してみれば、

  • ノローグを言う
  • 突然寝る
  • トイレに行く

などは「登場人物が一時的に独りになる」という点については同種の性質を持っています*6

などなどを踏まえて……。
もしも15枚の演出くじを完全にアトランダムに引き、手を加えないとすれば、表層の文言=機能の大小がどれだけ違っても、15枚がほぼすべて同カテゴリの演出になってしまう、という事態が考えられます。どころか、検証会で実際にそうなった可能性すらあります。

そして、「これは回らんぞ」と見なされれば…… まあ、そりゃあ、多少の編集、伐採・整頓はしますよねえ……みたいな。

とまあ、そんな推測をしているんですよ。どうなんでしょうね。

今回こそアンコール・ビューイングが即座に欲しかった

ここまでつらつらと振り返ってみてつくづく思いますが、とにかくZEROではアンコール・ビューイングが即座に欲しい。ひとつの公演内に持ち込まれている要素が、複層的で、かつ多いからです。特に、追加された演出カードについては、「劇中、いつ使われたか」を正確に確認する方法が、アンコールかディスクパッケージかしかありません。そして、アンコールまで時期が空いてしまうようでは、結局初見と変わらないぐらいまで忘れてしまう。

もともと私は、AD-LIVEに限らず、本公演から間をおかずに同一の公演を観ることがすごく好きです。これが非常に楽しくてですね、わりと細かいところまで覚えているうちにもう一回、しかも観客席側の反応はあらためて生で観られる、というのは、他に代えがたい唯一無二の体験なのです。

これが、現在のような「本公演からアンコールまでの期間が長い」という形では、できないんですよねえ! ほんとにもう!
……なので今回、1月18日公演のアンコールが即座に行われるのが本当に嬉しくて、そりゃもう速攻でチケットを押さえました。2回観るんですよ、2回!




だいたいこんなところでしょうか。
AD-LIVEについて、どんなことを語り、考えたとしても、すべては確認しようもなく、無意味なのかもしれません。それでも私は考えてしまうし、それを抜きにしては、会場に向かう理由も薄れてしまうような気がするので……これからもAD-LIVEと仲良くするために、その考えの物量はもはや《肥満型》*7だろ!と言われてしまうのも辞さず、考えたり書いたりしていきたいと思います。

*1:あとで掘り下げます。

*2:個人の感想ですが、2016はメリハリもあって出来がよいと感じる一方、2018は少々退屈です。

*3:今回、どうしても行けなかった1公演を除き、計7公演を確認しています。

*4:正確には、語義の範囲だけでなく、さらに加えて劇中文脈の範囲という拘束も受けます。アフタートークで梶さんが「正体として呼び出せるキャラクター」についての思案を解説してくださっているのがわかりやすいですね

*5:余談ですが、最初はここを『ドラゴンクエスト』としようと思い、「やくそう・上やくそう・特やくそう」と書くことを考えてやめました。

*6:それ以外の差はもちろんありますが、大きな機能には重なりがある、ということが主旨です。逆説的に、通常の作劇においては「ここで登場人物Aに独りになってもらいたい。ではBにはどういう演出で退場してもらおうか?」という発想になっています。

*7:モバ-LIVE引いてみた。ひどい。