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AD-LIVE 2016開催によせて

とあるイベントに当選したので、急遽こんな文章を書くことにしました。


――「AD-LIVE」とは?
90分間、そのほぼすべてがアドリブ(即興)で紡がれる舞台スキーマ
決まっているのは、大枠となる世界観と最低限の脚本のみ。
役柄すら役者本人に委ねられており、事前の情報交換は一切なし!
舞台上で顔を合わせる時まで、お互いの役については何一つ知らない。

その場、その瞬間にしか生まれえない、予測不能の90分。
初対面のキャラクターたちが紡ぎだす、奇跡の物語をご覧あれ!



……いえ、即興で書いたものなので、
ちゃんとした解説は公式サイトやトレーラーをどうぞ。

www.youtube.com


上記の説明ではまあ、もちろんいくつか不足している情報があって、
それをざっと箇条書きしておく。

・出演者は「アドリブワード」を詰め込んだ「アドリブバッグ」を持っており、
 随時、任意のタイミングでここからワードを引き出して使用してよい。
 ただし、引き出したワードは必ず使用しなければならない。
 なお、アドリブワードは事前に一般から募集したものを使用する。
・出演者は声優を本業とする役者たちがメインである。
・BGMも即興でつけられる。
・プロデューサーは自身も声優であり、脚本・プレイヤーも務める鈴村健一

というところだろうか。


「AD-LIVE」について、正しく語ることと好ましく語ることはまったく別のことなので、一応、この記事の趣旨としては「好ましく語る」ことから始めたい。表現修正。いくら正しく情報を連ねても、その良さには迫れないので、ここでは情報の正しさより、その面白さに触れられるように語りたい。


さて、改めて、AD-LIVEとは何か?

もちろん、AD-LIVEは演劇であり、舞台劇である。舞台装置も組まれるし、照明も音響も整えられる。衣装もあればメイクもある。



では、AD-LIVEでは何ができるか?

役者は自分の、自分自身の望む役を演じることができる。
そして、望む結末へたどり着くことができる。
思う通りに演じ、言いたい言葉を叫び、伝えたい思いを尖らせることができる。

普段はシナリオに拘束され、あるいは自分自身の持ち味にも拘束されている役者たちが、「こういうのやりたかったんだよ!」を炸裂させることができる。
試したいことを試せるし、見せたいものを見せられる。
役柄と脚本の拘束から解き放たれ、どこまでも自分自身の限界に接近していける。



では、AD-LIVEは何ができないか?

まず、パンフレットが作れない。

何せ、それぞれの役名からして非公開なのだ。ある公演でなど、舞台上で名前を問われた役者がアドリブバッグからワードを引いてそれを名前にしてしまったぐらいである(会場中がどよめいた)。


次に、再演ができない。

実は究極、脚本がないだけなら――すべてが即興で組まれるというだけなら、舞台そのものを全部録画し、音声から起こせば同じ展開を再現することはできるのだ。
だが、AD-LIVEにおいては、そうはいかない。アドリブバッグが持つ偶然性というエッセンスが邪魔するからだ。バッグから「偶然」引いたワードを使う、という仕組みが、そのあとの再現可能性すべてをぶっ潰してしまう。

舞台の再演とは、必然のみで組まれた舞台だからこそできるもの。偶然をこれでもかと盛り込んでいくAD-LIVEでは絶対にできないものだ。

これはつまり、リハーサルができない、ということにも通じている。役者から見れば、リハーサルで使った役は、その段階で使用不可になってしまうのである(相手に種が割れてしまうので)。役者は舞台の上でようやく初めて、人前に役を触れさせることが叶うわけだ。


そして最後に、観客の存在なくして舞台を成立させることができない。

これは、ビジネスのことでもないし、リハーサルができない、という意味でもない。
AD-LIVEにおいては、「観客」が果たす役割が大きすぎることに由来する。

まず、舞台のある一面を支えきる土台のひとつ、膨大なアドリブワードは、一般からの応募によって成立する。その数は控えめに見積もっても数千から万のオーダーであり、率直にいって数の暴力の域である。
このアドリブワードの内容については主催者側から多少の方向付けがされるため、まったく無秩序なわけではないのだけれども、それにしても、多彩な言葉が膨大に注ぎ込まれることになる。

この膨大さはアドリブワードの偶然性を担保する上で非常に重要である。「ワードを狙って引くことができない」という状況に役者を追い込んでこそのAD-LIVEなのだから。



と、こう書いていくと、AD-LIVEは、役者に限りない自由を与える一方で、その環境の成立には猛烈な制約がかかるように見える。

嘘だ。

自由と制約――役者と環境に対置して語ったけれど、AD-LIVEは、役者に不自由を、環境に自由をももたらす。


――役者への不自由。
AD-LIVEに出演する役者は、「自分が持っているもの」「使えるもの」「隠せないもの」を見つめ直さざるをえなくなる。

例えば、2015年のAD-LIVEに女性キャストが参加するまで、AD-LIVEには純粋な女性キャラクターを演じられる役者はいなかった。それは、出演者がことごとく男性だったから――【ではなく】、AD-LIVEが「約束しておくこと」ができない舞台だから、という事情による。

芝居は嘘を含むもの――男性が女性を演じたってかまわない。ただし、嘘をその場の真とするには、「そうと見なす」という約束が必要だ。たとえば歌舞伎の女形のように、あるいは宝塚の男役のように。そして、AD-LIVEはそのように「約束事をくまなく敷き詰める」ことにおいてはとにかく弱い*1

誰一人として互いの思惑を知らない以上、「完璧に女性の格好をして現れ、女性としてふるまう男」を、女性として扱うのか男性として扱うのかは不定だし、約束の一端が崩れてしまえば、観客を騙しきることはできない。

ありあまる自由が与えられることによって、逆説的に、「どうしても自分の身体から引き離せない要素」を突き付けられる。これが役者にとっての「不自由」のひとつだ。


そしてもうひとつ……AD-LIVEに出演する役者は、孤独である。

誰一人として、自分がやろうとしていることを察してくれていない、というのは、普通の演劇ではありえないことだ。

これは実際に舞台に立った役者のほうが想像しやすいことだと思うけれども、役を演じている時、役者は「未来を察しているが知らない」というような、二重化した意識を持っている。例えば次に驚きの展開があるとして、役者はそれをあらかじめ察しているわけだが、役の上ではそれを知らない(ので心底から驚く)。

このような、「予定された驚き」というものを、AD-LIVEは基本的には内包しえない。事前の打ち合わせはできない、しないルールだ。

これは、役者にとってはとても孤独なことだ。自分が考えていること、やろうとしているプランは自分の中にしかなく、伝わってくれるかはわからない*2
みんなが寄ってたかって世界を堅固に構築する演劇とは、まったく様相の異なる世界だ。


――環境への自由。
AD-LIVEの舞台は、余韻を約束しない。
ハッピーエンドを約束しない。バッドエンドも約束しない。
喜劇も悲劇も約束しない。

AD-LIVEの舞台が提供するのは90分を持たせる枠組みであり、役者個々人のプランに滅私奉公しない。用意された小道具が適切に使われなくたって構わない。舞台上には存在していたのに見向きもされなかったものもあれば、まさかそんな、という使い方をされる道具があったってかまわない。

スタッフのちょっとした思いつきで小道具が増えたっていいし、逆に何かひとつがある公演からなくなっていたって大体の場合は問題ない。
本質はそこではないからだ。



こんなふうに、AD-LIVEはとても尖った舞台だ。ある方向は崩壊もかくやというほど開放しておきながら、その裏返しとして、獰猛なほどの制約を突き付けてくる。

AD-LIVE2015に先駆けて公開された総合プロデューサーのコメントには、「不自由の中でどれだけ自由に暴れられるのか?」という一言が含まれていた。

つまるところ、AD-LIVEはその即興性からくる一見のイメージとは裏腹に、自由な舞台などではまったくなく、むしろ不自由に立ち向かうことにそのエッセンスがある……ということなのだろう。



舞台に立っているその瞬間、役者たちは、猛烈な速度で過ぎ去る時間の中、己の肉体と頭脳、そしてそれをドライブするスキルと経験でもって、観客と共演者、何より己の限界に単身立ち向かっていくのですよ。

その有様はまさにプロフェッショナル、超一流の役者による、芝居・演技のインファイトであります。演劇を楽しみつつも、「○○さん頑張れ」という気持ちにすらなってしまうという点で、スポーツの試合に近いところもあると思う。


殴り合いにも似たスキルの応酬でありながら、根本的に話の流れが面白方向にわりと振れがちなところもポイント。

これだけ加速が極まった舞台だと、役柄と役者の人格がどうしても接近し、時には一瞬交代してしまうので(もちろんそれも面白さなのだけど)、笑かす方向に行ってしまったり、後味がいい方向に流れがちなんですよね。


そんなわけで、お気に入りの役者がいるのなら、ぜひAD-LIVEを観るとよいでしょう。お腹が重く感じるほど、ずっしり来る観劇体験間違いなし。しゃぶりつくし、食らいつくすのがおすすめです。


公式サイトはこちらから。



次回は(もしあれば)、AD-LIVEの脚本が備える構造と制約について――はことによると踏み込み過ぎるので……

AD-LIVEと人狼TRPG、偶然を物語化する機構、あたりでしょうか。

たぶん、人狼バトルやTRPG系映像コンテンツの隆盛と並べて語っておくのは悪くない筋だと思うので。

*1:AD-LIVEの名手・岩田光央氏はこの点に極めて自覚的だったはずである。この点を逆手にとった役作りをしてきた公演がある

*2:とはいえ彼らはプロの役者なので、観客からすると魔法なのかと驚くような緻密さで舞台上で意思疎通していたりするのだが……。時に仕込みかと疑われるほどのシンクロを見せてくれるので、それはそれで見どころである

Rejet岩崎大介の愛と暴力 ~ DIABOLIK LOVERSにおける救済の仕組み

このカテゴリをはてなブログにぶち込めることが嬉しくてならないな!


女性向けコンテンツメーカーRejet代表取締役にして、プロデューサー・作詞家の岩崎大介。通称は岩D。乙女の耳を制圧し続けているRejetコンテンツのほぼすべて*1の作詞を担当し、なんと作詞200曲記念のベスト盤「iD Best」2枚の発売も控えているという、知る人ぞ知るカリスマレジェンドである。


自らの作詞で作品の世界観を規定する方針は多くの作品で貫かれており、2014年にニコニコ生放送で行われた「24H RejetTV 夏祭り~アリノママデ▼*2~」内コーナー、「炎の真夜中挑戦者*3 ~乙女ゲームを2Hで作ろう」では、ほとんど何も決まっていないうちから「じゃあとりあえず作詞しようか」と発言し、コアな岩Dファンからの快哉を浴びた。

作詞においてはルビの多用、コーラス、台詞の導入など、超高密度に多重化された構造を構築することに定評がある。外国語の音での日本語詞とのダブらし、熟語に別熟語の読みを振るなど、そのテクニックは多彩かつ縦横無尽。2016年5月26日現在のTwitterトップのツイートにある「語りTooCoolしました」というコメントも通常運転。


そんな岩崎大介氏の作詞について、私は語りたいのである。


今回は一回目なので楽曲の各論は避けて、特にRejetの評価を高めた作品「DIABOLIK LOVERS」に明らかである「愛と暴力」の関係について書こうと思う。


「DIABOLIK LOVERS」における登場人物は、ほぼ漏れなくヴァンパイア、吸血鬼である。彼らは人間をなんとも思っておらず――あるいは餌としか思っておらず――、そもそも「心」や「愛」にきわめて鈍い。寿命から解き放たれているがゆえに、死を祝福ととらえ、「いつ死ぬか、いつ死ねるか、その時を待ってる」*4と語る。

つまるところ、彼らヴァンパイアは愛の様式どころか、根本的な価値観からして異なる存在として描かれているわけだ。

そんな彼らのテーマソングの一「真夜中の饗宴(MIDNIGHT PLEASURE)」のサビでは、〈愛〉と書いて《いたみ》と読ませる個所が出てくる。


そもそも岩崎大介の作詞においては、一種の暴力行為と愛を直結する表現は多かった。「DIABOLIK LOVERS」以前においては武器と隣接させた作例が多く、「TOKYOヤマノテBOYS」桐嶋伊織(CV.鈴木達央)の「LOVEマシンガン」における〈愛の弾丸(LOVE BULLET)〉、同作品・九条拓海(CV.遊佐浩二)の「今宵、この切っ先で」、Scared Rider Xechs*5「愛のZERO距離射撃 ‐loveshooooot!!!!!-」などの例が挙げられる。ほかにも〈愛の剣〉というフレーズは、TYBシリーズ「終わりなき愛の決闘者」、DIABOLIK LOVERSシリーズ「極限BLOOD」などに登場しており、一種の定型となっている。


とはいえ、「真夜中の饗宴」の作例はさらに進化、発展を遂げている。

彼らの行う吸血は明らかに暴力行為であり痛みが伴うものである――彼ら自身もそう歌い上げる――のに、それは「歌詞カードを読む者」、言い換えれば〈受け手〉にとっては「愛」である、という構造があるからだ。

音という聴覚情報においては《いたみ》、
目で見る視覚情報においては〈愛〉である。

この構造は、彼らが発した【情報】と受け手が読み取る【意味】の間にある大きなずれを浮き彫りにし、その反射として、ヴァンパイアによる吸血という暴力行為を愛情の発露として再配置してしまう。

「DIABOLIK LOVERS」においては求愛を振り替えて「吸愛」としたり、求婚を振り替えて「吸婚」とするという面白当て字があるのだけれど、これらはあくまでキャッチコピーとして存在するのみで、男性側から提示されることはない。

男性側である彼らは自らの行為が暴力であることを頑として譲らず、ただ女性側がそれを積極的に解釈することによって、その暴力行為が愛情として救済されるのである。一見の関係性とは裏腹に、「DIABOLIK LOVERS」は圧倒的に女性優位に組まれているのだ*6

その女性優位の構造はもちろん、女性向けコンテンツが宿命的に持っているものだろう。だから、それをもってして「岩崎大介の持つ世界観」としてしまうのは乱暴な分析だと思われる。

一方で、草食系男子という表現が浸透したことから推測できるように、一部の男性が己の欲望を一種の暴力と位置づけ、その発露を封じている実情もあるのではないだろうか。


だとすれば、岩崎大介が暴き出した「暴力を愛と読み替える」セオリーは、現実の男女に起きているすれ違いをも救うかもしれない。



――と、むやみやたらと話を大きくとっ散らかしたしたところで今回は終わり。


この構造から「愛ってしょせんは錯覚でしかないな」と思うか、
「愛に決まった形はなく、ふたりの間に見出すものなんだな」と思うか、それは各人の自由。

*1:もしかすると全曲

*2:▼はハートマーク

*3:「ミッドナイトチャレンジャー」と読む。真夜中と書いてミッドナイトと読むのは岩D定番

*4:DIABOLIK LOVERS ドS吸血CD MORE, BLOOD Vol. 09 逆巻シュウ 極限の愛 より

*5:なんと2016年夏にアニメ化が決まっている

*6:一見とは裏腹、とは書いたものの、ゲーム1作目のシナリオを通読すると、主人公優位であることはこれ以上ないほど明らかになる。以降も一貫してシリーズ内では主人公優位が貫かれる

想いをすり替えて言葉

喉、治りました。


物は言いよう、という言葉がある。
同じことを言うのでも言い方によっては大違い、という趣旨の言葉だけれども、この実例については、あんまりきかない。

自分はこの「言いよう」に関することばかり考えていて、言い換えばかりが得意になっている。


以下、ある日の実例。

友人が、「Twitterで○○という発言を見かけてすごく嫌な思いをした」という趣旨のことを言った。

○○に当てはまる文の形はこうだった。

「なんでAがBじゃないのかわからない」

実際はそうじゃないのだけれども、キャスティングのことだと思ってもらえれば大体の構造は合っている。なぜAを演じるのがBさんでないのかわからない、のような。

友人はその発言を見て、とてもとてもいやな気持ちになったそうだ。公式の采配に文句をつけるのか、とか、実際にAだったCに対して失礼だろう、とか、とてももやもやしたのだと。特に友人自身はCが好きで……ということではなく、それはあくまで礼儀としてだったけれども。

そのもやもやに対して、私は文の形を変換して示した。

「AがBなのを見たかった」

言った本人はそんな気持ちだと思うけど、と言ってみたところ、友人は目から鱗が落ちたような反応で、それならすごく納得できると言った。


実際のTwitterの発言主がどういう気分でその発言に至ったかは分からない――どころか、むしろ本当は間違いなく元文どおりの想いだったとは思うのだけれども、きれいな言葉にすり替えれば、まあ、すり替えたなりの演出にはなるという例。


想いをすり替えて言葉を選ぶ、そんな面倒なことはいちいちやってられないのが多くの場合の実情だと思うけれども、その効果のほどがもうちょっと知られてほしいなと思うので、この例を書き残しておく。

感情とその発露、行動へのギャップ~「プロ」と「アマチュア」

まだ喉がダメです。


今日は匿名ダイアリーにあがってたこれ。

こんな愚痴をコナンで吐くことになるとは思わなかった。

ブコメでは、

嘆いたり願ったりするならぜひ布教活動に精を出してほしい。その愛情をもってして、ポジティブな行動につなげてほしい。(一部抜粋)

としたんだけれども、まあ、これはもうちょっと書き下しようがある気がしたので。


作品への偏愛*1というのは、オタクが"オタク"を自称する際の心情的根拠というか、例えば「偏愛がない奴ぁオタクじゃねえ!」的な妙な自尊心とセットであったり、そういうものと連関するものだと思っている。

ので、それが感じられない*2自称オタクに対して、むやみに感情が刺激されることがままある。例えば「原作コミックスも買わずに二次創作をするのは邪道」のように、金銭面での公式への貢献をほとんど条件のように語ってしまうのがその一例だろう。

つまるところ、深みを知る者はある種のプロフェッショナルとなり、プロらしいプライドでもってそこに向き合っているようなものだと思う。


一方で、特定ジャンルのファンコロニーは、常に新規流入のハードルの高さに敏感になっていたりする。「SFファンの平均年齢は毎年1歳上がる」とか、「シューティングゲーム(あるいは格闘ゲーム)はマニアが滅ぼす」とか。頂が高く、険しい山が生半な登山者を拒むように、入り口を厳しくし過ぎると、寄り付くものすらいなくなる。山はともかくとして、作品ジャンルは寄り付くものがいなくなると滅んでしまうので、入り口は緩やかに、先に進むにつれ険しく、という形が望ましい*3


ここまでつらつら書いてきて、結局は「偏愛もちたるプロフェッショナルオタクは、まだまだアマチュアな、入り口付近に到達したオタクには優しくするがよろし」ということを書きたいだけ。


にわかなファンに眉をひそめ、偏愛の不足を揶揄する古参は、「技は見て盗め」という昔気質な職人に似ている。むやみやたらに親切にする必要はないだろうけど、持っているアドバンテージは後ろからやってきた仲間候補に分けたらいい。原作に触れてくれたら公式も潤うし、なにせ自分は損しない。そして運よく仲間が増えれば、新たな地平も見えてくるかもしれないし。


ネガティブな状況にはポジティブを生む行動で応じるという、シンプルな対応が好みである。

*1:村上春樹柴田元幸著の『翻訳夜話』には「かたよりのある愛情」についての興味深い言及があった記憶がある

*2:「感じられない」であることは重要。相手の表現力がその本人の偏愛に対して必要十分とは限らないから

*3:ゲームのチュートリアルに通じるものがある

二次創作活動と同人誌即売会のあれやこれに思う「やさしい世界」

5月13日から15日までの3日間、声を張り上げ続けて喉がマッハ。


その間、ホッテントリに「同人やめました」なる記事が入ってきていた。

同人やめました - おとなになりたくなかった

一年前に書かれた記事だけれども、とてもいろいろなことを思わせる記事で、何度も読みふけっている。


特にコメント欄でブログ主は、

未だに自分の作品が誰からも必要とされていないのではと思うと作品を作る気力が湧きません。
売れなくても好きなものを好きなように描いていた頃に戻りたいです。

と残しており、このくだりはなんとも胸に刺さるものがある。


「必要とされていない→作品を作る気力がない」
「売れなくても好きなように描いていた」が両立しているということは、

「どこかの誰かが必要としてくれているという希望があるから、好きなものを好きなように描けていた」という構図が見えてくる。
その次のコメントには、

あんなに一生懸命描いたのに、まだダメなのか…と、引退する一年前くらいからイベントに出るたびに打ちのめされていました。

ともある。「まだダメ」ということが何を指しているのかは不明瞭だけれど、おそらく気にしているのは「売上*1」だろう。

ブログ主が希望を見出していた「二次創作活動と同人誌即売会」の世界には、いまや絶望しかない、という叫びがあふれている。


……と、ここまでこう書いてきてしまうと、まるでブログ主の心理をばっさり切りたくて書いているかのようだけれど、本稿の趣旨はそういうことではない。

ここで取り扱いたいのは、「二次創作活動とそれに付随する同人誌即売会は、きわめて繊細な欲望の両立に寄り添っているんだな……」というある種の感慨の念だ。


なお、私も二次創作活動をする。それも、ほとんど自分のためだけにする。どういうことかというと、「ある作品を読む→見えてくる風景がもっと精密に見たくなる→公式から供給されることはありえない→己で書くしかないから書く」という流れで、自分が読んでしまえば満足するので、結局それが表に出ていくことはない。

けれど個人サイトの全盛期、それを不意に「やってみようかな」と思い、個人サイトを作った。扱う作品はひとつのみで、それ以外は基本的には何も載せなかった。閲覧者は作品に興味があるのであって、"私"に興味があるわけではないから、複数作品をまたいでもノイズになるだけだと思った。

最初の時点でいくつかの作品を並べ、あるサーチ*2に登録した。3日に一度は更新もしていた。更新のたびにごく短い二次創作を書き下ろし、その数は100を超えた。その間に長編も載せていた。未完放置は大嫌いなので、完結したものしか載せなかった。最終的には数万字を超える、テキストとしては長めのものもいくつかあった。

Web拍手も設置してみた。ごくたまに感想が届き、舞い上がるほど喜んだ。必ず返事を書いた――あれ以来、「拍手返礼」が義務感からのものではないと知った。嬉しくて、なんとかお返しをしたくてするのだ。まあ、悪意のあるコメントが送られてこない程度の小さいサイトだったからだろう。

ただし、一度も同人誌即売会へのサークル参加には踏み切らなかった。ひとつには、「交流したくない」という欲があったし、もう一つには、「この文章は私にとっては必要なものだったが、他の人にとってはおそらくそうではないだろう」と思ったからだ。

自分ではそれなりの分量の文字を書き連ねておいて言えたことではないが、合わない相手の文章を読むのはたまらなく苦痛である。私は同人誌即売会ではめったに小説に手を出さない。自分にとってのはずれ率が高すぎる。


今ではそのWebサイトは開店休業状態である。なにせ、その作品を書かなくなってしまった*3。今でもちまちま別作品は書いているが、それは持って行き場がないものであり、PCの中で私だけが読み返すものになっている。

それでもまれに、「これは公開してみようかな」と思うものがあって、Pixivにアップしてみたりもする。旬のジャンルを追っているわけではないし、交流も持っていないが、ブクマや評価がつくと嬉しい。ある作品だけは意外なほどにブクマが付いて、とても驚いた。嬉しかったから、つい調子にのって続編を書こうとしてみてしまった。結局いい形にならなくて、それはやめてしまったけれど。


そんな行為をしたことがあるから、評価や感想の効能――毒は知っているつもりである。



閑話休題、「やさしい世界」について。
自分が力と時間と心を割いて作り上げた「同人誌*4」が誰かに手に取ってもらえ、しかもそこに金銭を支払ってもらえるというのは、ある種の「肯定」「報われ」として作用しただろう、と思う。

その先に――くり返すがその"先"に――穏やかな交流や深い作品考察の交換の可能性がある。同人誌を手に取ってもらえることはゲートなのだろう。手に取って、金銭を支払ってもらえたことで、心のゲートを一段階開くような。

即売会にある(ブログ主が懐古するのに合わせるなら『あった』)「やさしさ」とは、好意や親愛の代替のように私には思える。

「義理で感想を言うのが苦痛」「本音が分からず人間不信ぎみに」などなど、コミュニケーションの断絶の言葉と、「結局交流上手な方が売れる」「売上は他所に遠く及ばない」など、自分と他人を比較し、売上を気にする言葉が併存するのは、その二つが機能的に隣接しているからなのだろう。


TwitterとPixivの台頭で可視化された世界は光が強すぎて、まるで隅々まで見渡せるような気がしてしまうだろう。自分がそこを閲覧する時には膨大な数の作品が一望できているように見えるから。

見える側の感覚で見られる側に立つと、あまりにも自分が見られていないように感じるだろう。

けれど実は、ほんとうは、そうでもない。

例えば電子書籍の世界では「検索という能動的行為では、出会えるものに限りがある」というのが今や常識となりつつある。探せないものは売れない、だからまずは知られなくては、というのがセオリーだ。

そんな例を出したってなんの慰めにもならないだろうけれど、思った以上に、感じている以上に、我々は「そもそも見られていない」。だから、「見られたのに手に取ってもらえない」と感じたとしたら、それはきっと錯覚だ。

世界は相変わらず薄暗く、まだ出会っていない人は山ほどいる。
TwitterとPixivの照らした地平など、大したことはない。


ブログ主が同人誌即売会に見出した希望は、その影が薄くなってしまっただけだ。
その希望はきっとまだそこにあるはずだと私は思う。

例えば日本最大の同人誌即売会コミックマーケットでは、一日に10万人以上の人が訪れるという。そのうちの数人程度すらも自分のことを知らないとしたら、それはとても恵まれた――希望があることだろう。

*1:もしかすると、この言葉は同人誌原理主義的にはなじまないのかもしれない。同人誌即売会では「販売」を用いず、「頒布」を用いるくらいだから

*2:サイトの傾向をタグ等で示した登録型リンク集のこと

*3:本当はまだ書いている。完結していないから出さないだけだ

*4:手に取れる物体であることはそれなりに重要である

VALKYRIE ANATOMIA-THE ORIGIN-

www.valkyrieanatomia.com

をちまちまとやっている。


往年の『VALKYRIE PROFILE』ファンとして、という要素が大きいけれど、もう一個、欠かすことができない要素に、シナリオ担当、藤沢文翁氏の存在がある。


藤沢文翁氏と言えば、朗読劇『SOUND THEATRE』の創始者として著名であり、作詞、劇脚本、小説はもちろん、演出やプロデュースの面でもまれなる活躍をしている方だ。

何度か『SOUND THEATRE』の舞台を観劇する中で、その作劇に胸躍らせてきた。「読みあげる」「聴かせる」を主軸に、けれど視覚的な演出は決しておろそかにすることなく、観客の想像力を大いに刺激するスタイル。命を扱いながらも決して悲壮になりすぎることなく、人間以外を描きながら人間を思わせる構造。

中でも、照明演出装置 .image(ドットイメージ)を活用した舞台『Valkyrie ~Story from RHINE GOLD~』*1(以下『ラインの黄金』)は、キャッチーな演出と物語的な深みを両立し、北欧神話の再解釈を見事に成立させていた。多くの作品で命を扱ってきた『SOUND THEATRE』の中でも、独特の存在感を持っていると思う。



で、だ。
その藤沢文翁氏が、またValkyrieを描くというのだから、これは『VP』ファンとしてもプレイせねばなるまい、ということで、プレイをしたわけだ。

まず、レナス・ヴァルキュリアのCVにひっくり返ったね。沢城みゆきさんである。『ラインの黄金』でブリュンヒルデワルキューレ)を演じた沢城さんが、ヴァルキュリアを。そしてオーディンは……NPCなので確認できていないが、どうやら山寺宏一氏であるように聞こえる。こちらも、『ラインの黄金』でオーディンを演じた*2山寺氏だ。……つながっているなあ!
私はまだ辿り着いていないが、『VALKYRIE ANATOMIA-THE ORIGIN-』(以下『アナトミア』)のプロローグでは既にロキやソーの存在は明かされているので、こちらのキャストもかぶらせてくるのか、気になるところ。


しかも、両作品のフレーズも明確に関連性がある。『ラインの黄金』のコピーは「その日、神々は汚される」であり、一方の『アナトミア』は「その日、神々が汚された」。

厳密に作品をつなげてくるかどうかは不明だけれども、『ラインの黄金』は未来想起、『アナトミア』が過去回想という位置づけの差はなかなか興味深い。



『アナトミア』のシステム面の話に移る。
バトルは、過去の『VP』シリーズを踏襲し、ターン制リアルタイムアクティブバトル*3。クエスト進行にはいわゆるスタミナ(作中ではAP)を使用し、すごろく風マップを移動・探索、必要に応じて休息する。このうち、移動のみAPがマイナスでも実行することが可能なので、APの運用にひとくせを加えている。

バトルはオート戦闘も可能。武器の育成が十分なら、序盤はオートでもそこそこ戦える。ターン制である都合上、被弾が避けられないので、中盤以降は運用もシビアになってきそうな気配だ。

主な有料の要素、いわゆるガチャは「武器生成」に相当する。キャラクターはシナリオ進行で勝手に増えていくのであり、このあたりも、シナリオに藤沢氏を起用したねらいとマッチする。物語についてはランダム要素はないということだからだ。
レア度は現状、6段階。先日10連生成(一つおまけがつく)をしたら、星5が3つ、星4が4つ、星3が4つという結果だったので、まあなるほどそのあたりだろう、という感じである。


……そろそろ書くのが疲れてきたので、続きはまた次回。シナリオの話がしたいね。

*1:こちらの読みは「ワルキューレ」である

*2:もともとは井上和彦氏がキャスティングされていたが、井上氏の急病により、急遽代役を務めた。なお、代役決定時点で本番まで24時間を切っていたという(藤沢氏のブログより)。山寺氏はもちろん、それをフォローする周囲のキャストやスタッフも凄まじい

*3:交替ターン制だが、各ターン内ではリアルタイム進行

「そんなつもりじゃなかった」マウンティング

「そんなつもりじゃなかった」

 という発語にうんざりした経緯があって、こんなタイトルをつけている。




 先に結論から書く。

 そんなつもりじゃなかったことを認識している相手に対して
「そんなつもりじゃなかった」
 と発語することはマウンティングの一種であって、
 相手に免罪を要請する卑劣な手だ。



「そんなつもりじゃなかった(そう、つまり君は誤解してるんだ。君は僕に悪意があったか、そうでなければなんらかの思惑があって行動したかのように言うけれど、正直僕はそこまで深いことは考えてなかった。誤解なんだ、誤解なんだ、君が傷ついているのは、怒っているのは、君の誤解に基づくものなんだよ、だって僕にはそんな悪意も思惑もないんだから。君が誤解したのが原因なのさ。君の誤解が解ければこんな居心地の悪い議論はしなくて済んで、次の段階に進めるだろう、だから僕の悪意や思惑を勝手に決めつけないでおくれよ、決めつけた途端に間違っているのは君だからね。僕の内心は僕の聖域だから、君が外からどう言い募ろうと、そんなつもりじゃなかったことは揺るがないよ。だからその誤解を解いて、決めつけはやめてくれ、それが誠実な態度ってもんだろう)」

 ぐらいのことは言っているのだ。
 ……そして、「その発言はつまりこれぐらいのことは言っているわけだが」と確認すると、「そんなつもりじゃなかった」以下ループ。

 なお、「そんなつもりじゃなかったことを認識している相手に対して」という前置きは重要である。本当に誤解しているのなら、その誤解は解くべきだろうからだ。
 



 ある程度発展したモラリティを持ち合わせたケンカでは、実は「謝罪」はそれなりに強いカードでもある。
 謝罪した時点で、相手に免罪を迫れるからだ。
 謝っているのに許さないなんてそっちこそ酷い、というカウンターがあるし、弱い態度を見せた相手をさらに打ちのめすのには心理的抵抗を持つ人もいるだろう。
 むろん、過失や罪を認めた時点で隙が生まれるので諸刃の剣ではあるわけだが……

 「悪かった」などの直接的な謝罪に対して、
 「そんなつもりじゃなかった」はさらに一手卑劣である。
 謝罪の文言を含んでおらず、解釈の仕手に責任を転嫁している。

 内心を忖度してくれ、という要請は、行動の過ちを見逃してほしいという願望の言い換えではなかろうか。
 内心は誠実だから、正義だから、高潔だから……そんなつもりじゃなかった【から】なんだというのか。

 そんなつもりじゃなかったことはとっくに知っているのだ。


 言葉も行動も、何もかも完璧にできないのは仕方ないと思える。
 うかつにも失敗し、時に人を傷つけてしまうこともあるはずだ。

 うかつな発言も行動も全面的に許すから、
 せめてその発言の卑劣さを自覚してもらえないものだろうか、と思い訴えるけれども、
 この種の構造的な指摘は多くの相手にあまりにも通じにくいので、またため息をついている。