AD-LIVE 2016開催によせて
とあるイベントに当選したので、急遽こんな文章を書くことにしました。
――「AD-LIVE」とは?
90分間、そのほぼすべてがアドリブ(即興)で紡がれる舞台スキーマ。
決まっているのは、大枠となる世界観と最低限の脚本のみ。
役柄すら役者本人に委ねられており、事前の情報交換は一切なし!
舞台上で顔を合わせる時まで、お互いの役については何一つ知らない。
その場、その瞬間にしか生まれえない、予測不能の90分。
初対面のキャラクターたちが紡ぎだす、奇跡の物語をご覧あれ!
……いえ、即興で書いたものなので、
ちゃんとした解説は公式サイトやトレーラーをどうぞ。
上記の説明ではまあ、もちろんいくつか不足している情報があって、
それをざっと箇条書きしておく。
・出演者は「アドリブワード」を詰め込んだ「アドリブバッグ」を持っており、
随時、任意のタイミングでここからワードを引き出して使用してよい。
ただし、引き出したワードは必ず使用しなければならない。
なお、アドリブワードは事前に一般から募集したものを使用する。
・出演者は声優を本業とする役者たちがメインである。
・BGMも即興でつけられる。
・プロデューサーは自身も声優であり、脚本・プレイヤーも務める鈴村健一。
というところだろうか。
「AD-LIVE」について、正しく語ることと好ましく語ることはまったく別のことなので、一応、この記事の趣旨としては「好ましく語る」ことから始めたい。表現修正。いくら正しく情報を連ねても、その良さには迫れないので、ここでは情報の正しさより、その面白さに触れられるように語りたい。
さて、改めて、AD-LIVEとは何か?
もちろん、AD-LIVEは演劇であり、舞台劇である。舞台装置も組まれるし、照明も音響も整えられる。衣装もあればメイクもある。
では、AD-LIVEでは何ができるか?
役者は自分の、自分自身の望む役を演じることができる。
そして、望む結末へたどり着くことができる。
思う通りに演じ、言いたい言葉を叫び、伝えたい思いを尖らせることができる。
普段はシナリオに拘束され、あるいは自分自身の持ち味にも拘束されている役者たちが、「こういうのやりたかったんだよ!」を炸裂させることができる。
試したいことを試せるし、見せたいものを見せられる。
役柄と脚本の拘束から解き放たれ、どこまでも自分自身の限界に接近していける。
では、AD-LIVEは何ができないか?
まず、パンフレットが作れない。
何せ、それぞれの役名からして非公開なのだ。ある公演でなど、舞台上で名前を問われた役者がアドリブバッグからワードを引いてそれを名前にしてしまったぐらいである(会場中がどよめいた)。
次に、再演ができない。
実は究極、脚本がないだけなら――すべてが即興で組まれるというだけなら、舞台そのものを全部録画し、音声から起こせば同じ展開を再現することはできるのだ。
だが、AD-LIVEにおいては、そうはいかない。アドリブバッグが持つ偶然性というエッセンスが邪魔するからだ。バッグから「偶然」引いたワードを使う、という仕組みが、そのあとの再現可能性すべてをぶっ潰してしまう。
舞台の再演とは、必然のみで組まれた舞台だからこそできるもの。偶然をこれでもかと盛り込んでいくAD-LIVEでは絶対にできないものだ。
これはつまり、リハーサルができない、ということにも通じている。役者から見れば、リハーサルで使った役は、その段階で使用不可になってしまうのである(相手に種が割れてしまうので)。役者は舞台の上でようやく初めて、人前に役を触れさせることが叶うわけだ。
そして最後に、観客の存在なくして舞台を成立させることができない。
これは、ビジネスのことでもないし、リハーサルができない、という意味でもない。
AD-LIVEにおいては、「観客」が果たす役割が大きすぎることに由来する。
まず、舞台のある一面を支えきる土台のひとつ、膨大なアドリブワードは、一般からの応募によって成立する。その数は控えめに見積もっても数千から万のオーダーであり、率直にいって数の暴力の域である。
このアドリブワードの内容については主催者側から多少の方向付けがされるため、まったく無秩序なわけではないのだけれども、それにしても、多彩な言葉が膨大に注ぎ込まれることになる。
この膨大さはアドリブワードの偶然性を担保する上で非常に重要である。「ワードを狙って引くことができない」という状況に役者を追い込んでこそのAD-LIVEなのだから。
と、こう書いていくと、AD-LIVEは、役者に限りない自由を与える一方で、その環境の成立には猛烈な制約がかかるように見える。
嘘だ。
自由と制約――役者と環境に対置して語ったけれど、AD-LIVEは、役者に不自由を、環境に自由をももたらす。
――役者への不自由。
AD-LIVEに出演する役者は、「自分が持っているもの」「使えるもの」「隠せないもの」を見つめ直さざるをえなくなる。
例えば、2015年のAD-LIVEに女性キャストが参加するまで、AD-LIVEには純粋な女性キャラクターを演じられる役者はいなかった。それは、出演者がことごとく男性だったから――【ではなく】、AD-LIVEが「約束しておくこと」ができない舞台だから、という事情による。
芝居は嘘を含むもの――男性が女性を演じたってかまわない。ただし、嘘をその場の真とするには、「そうと見なす」という約束が必要だ。たとえば歌舞伎の女形のように、あるいは宝塚の男役のように。そして、AD-LIVEはそのように「約束事をくまなく敷き詰める」ことにおいてはとにかく弱い*1。
誰一人として互いの思惑を知らない以上、「完璧に女性の格好をして現れ、女性としてふるまう男」を、女性として扱うのか男性として扱うのかは不定だし、約束の一端が崩れてしまえば、観客を騙しきることはできない。
ありあまる自由が与えられることによって、逆説的に、「どうしても自分の身体から引き離せない要素」を突き付けられる。これが役者にとっての「不自由」のひとつだ。
そしてもうひとつ……AD-LIVEに出演する役者は、孤独である。
誰一人として、自分がやろうとしていることを察してくれていない、というのは、普通の演劇ではありえないことだ。
これは実際に舞台に立った役者のほうが想像しやすいことだと思うけれども、役を演じている時、役者は「未来を察しているが知らない」というような、二重化した意識を持っている。例えば次に驚きの展開があるとして、役者はそれをあらかじめ察しているわけだが、役の上ではそれを知らない(ので心底から驚く)。
このような、「予定された驚き」というものを、AD-LIVEは基本的には内包しえない。事前の打ち合わせはできない、しないルールだ。
これは、役者にとってはとても孤独なことだ。自分が考えていること、やろうとしているプランは自分の中にしかなく、伝わってくれるかはわからない*2。
みんなが寄ってたかって世界を堅固に構築する演劇とは、まったく様相の異なる世界だ。
――環境への自由。
AD-LIVEの舞台は、余韻を約束しない。
ハッピーエンドを約束しない。バッドエンドも約束しない。
喜劇も悲劇も約束しない。
AD-LIVEの舞台が提供するのは90分を持たせる枠組みであり、役者個々人のプランに滅私奉公しない。用意された小道具が適切に使われなくたって構わない。舞台上には存在していたのに見向きもされなかったものもあれば、まさかそんな、という使い方をされる道具があったってかまわない。
スタッフのちょっとした思いつきで小道具が増えたっていいし、逆に何かひとつがある公演からなくなっていたって大体の場合は問題ない。
本質はそこではないからだ。
こんなふうに、AD-LIVEはとても尖った舞台だ。ある方向は崩壊もかくやというほど開放しておきながら、その裏返しとして、獰猛なほどの制約を突き付けてくる。
AD-LIVE2015に先駆けて公開された総合プロデューサーのコメントには、「不自由の中でどれだけ自由に暴れられるのか?」という一言が含まれていた。
つまるところ、AD-LIVEはその即興性からくる一見のイメージとは裏腹に、自由な舞台などではまったくなく、むしろ不自由に立ち向かうことにそのエッセンスがある……ということなのだろう。
舞台に立っているその瞬間、役者たちは、猛烈な速度で過ぎ去る時間の中、己の肉体と頭脳、そしてそれをドライブするスキルと経験でもって、観客と共演者、何より己の限界に単身立ち向かっていくのですよ。
その有様はまさにプロフェッショナル、超一流の役者による、芝居・演技のインファイトであります。演劇を楽しみつつも、「○○さん頑張れ」という気持ちにすらなってしまうという点で、スポーツの試合に近いところもあると思う。
殴り合いにも似たスキルの応酬でありながら、根本的に話の流れが面白方向にわりと振れがちなところもポイント。
これだけ加速が極まった舞台だと、役柄と役者の人格がどうしても接近し、時には一瞬交代してしまうので(もちろんそれも面白さなのだけど)、笑かす方向に行ってしまったり、後味がいい方向に流れがちなんですよね。
そんなわけで、お気に入りの役者がいるのなら、ぜひAD-LIVEを観るとよいでしょう。お腹が重く感じるほど、ずっしり来る観劇体験間違いなし。しゃぶりつくし、食らいつくすのがおすすめです。
公式サイトはこちらから。
次回は(もしあれば)、AD-LIVEの脚本が備える構造と制約について――はことによると踏み込み過ぎるので……