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AD-LIVE ZEROについてちょっと書く〜各取り組みの効果と結果をつらつらと

あけましておめでとうございます。2020年も書いたり書かなかったりしていきたいです。


さて。徳島公演が思わぬ形で決着したために、なんとなく機を逸していたテキストがありまして。

あらためての追加公演も間近に迫ったということで、下書きで眠っていたものを供養的に引っ張り出してみようかと思いました。大部分は徳島公演の中止の直後ぐらいに書いてたものです。

AD-LIVE 2019 あらため AD-LIVE ZEROで見えたことについて。

くじが事前に見られること〜転生トラック的省略のあり方

冒頭のトークコーナー、および終劇後のアフタートークが設定されたように、そもそも公演全体の枠組みが違ったAD-LIVE ZEROです。開幕にキャラクターの情報や舞台設定がある程度晒されているだけでなく、演出要素*1も「くじ」の形にしてオープン。劇中、30分経過で3枚追加する、という伏せカードはあったものの、これが莫大な威力を発揮した例はさほど多くなく、かつ、すべての演出カードはもれなく使用されなければならなかったので、観客側からすると追加カードの意義はそんなに大きくなかったと思います。少なくとも、初めて観劇した時点では「よくわかんなかったな」となりやすいと思うんですよね。

さて、まず触れたいのは、「設定があらすじに書いてある」ゆえに、劇中で説明しなくてもよくなる、という構造です。
以前、当ブログでは「AD-LIVEでは約束が難しい」という趣旨のことを書きました。

talko.hateblo.jp

一方、今回のAD-LIVE ZEROのように、事前に一覧で情報を開示してしまえば誤解の余地もないし、すでに決定・約束された事項として取り扱ってもらえます。つまり、冒頭のテンプレ的情報交換、世界観のベースの構築・確認を一部省略できる。

このような省略を生かした例としては、見出しの通り、「転生トラック」が挙げられると思うんですよ。「なろう小説」に代表される、ネット連載型ノベルの一大ジャンル、異世界転生ものにおいて、主人公が異世界に転生するきっかけを作るのによく登場するのがトラックによる交通事故です。ゆえに、このトラックを指して俗に「転生トラック」と言います。

転生トラックが流行した理由は容易に了解できます。それは、異世界に転生するまでのくだりで個性を出す必然性は通常なく、とにかく早く異世界の場面に入りたいから異世界に転生して、その異世界を描写するのが作品のメインであるからには、主人公には可及的速やかに、しかも文句の余地なく現世から退場してもらいたいですし、その場面でエキセントリックなことをする必要はないわけですよ。雑なテンプレで構わない、どころか、読み飛ばせるぶん、雑であるほうが良い、とすら言えます。一瞬で通過したいくだりなんですから。

同様に、AD-LIVEの舞台においても、「はじめまして」から「ここどこですか」「あなたはどうしてここに」などの冒頭場面を探り探り、言い換えれば約束できるほどていねいに積んでいくとなると、いささかくどく、テンプレ的になる可能性は高いと言えます。90分より短い60分の尺でドラマを展開させる条件下では、積極的に省略していけるポイントだったということだったのではないでしょうか。

もっと極端な例としては、AD-LIVE 2016の開幕シークエンスや、2018の冒頭の読み上げなどがあります。演者によるアレンジがまったく入らないため、全公演が完全に同一の進行をしますし、それにしては尺が長いですから、通い詰めるぐらい通った人にとっては飽きやすいポイントだったかもしれませんね。*2

演出要素の類型と、使い物にならなかったあれやこれ

はい、私的には問題の項目です。冒頭のトークコーナーでは「演出くじ」と言われていましたが、あえてここでは演出カードと言い換えておくことにします。

というのは、あまりにも各カードの再利用の度合いが高すぎたからです。くじと呼べるほど使い捨てられていません。

全公演に必ず含まれた[オールマイティ]を除いた開幕の14枚+追加の3枚で1公演あたり17枚、4日間×昼夜2公演で、のべ136枚の採用があったわけですが……おそらく、種別を挙げても到底100種*3には至らないでしょう。ともすると70種すら下回りかねない。それくらい、同じ演出カードが再利用されていました。

中でも特に露骨だったのは、[あっちむいてほいほいほい]と、[第3者が乱入する]でしょう。ふつう、「だいさんしゃ」と入力して変換すると「第三者」になるので、この表記の投稿ばかりが複数登場するのは不自然です。あとはやはり[笑え!]。ほぼ皆勤賞なんじゃないかしら。おそらく5公演以上は出てると思いますよ。


この事態をどう受け止めるかはかなり迷いました。…が、おそらくこんなところだろう、という仮説はあります。それは、くじを引いたのち、演出要素として表現を丸めて解釈する……という工程があったのではないか、ということです。

実際のみなさんの投稿が「誰か来る」「無関係な人の登場」「彩-LIVEが入ってくる」などの文言になっていたところを、すべて[第3者が乱入する]という形に丸めてしまう。そういう編集が入っていたのであれば、あれほどの再利用が出たのもうなずけます。

この推測がもしも正しいとすれば、「どんなに細かな表記や表現に違いがあったとしても、本質的な演出要素の括りで束ねられてしまう」ということと同義です。しかも加えてそのすぐ隣に、「どんなに似た表記であっても、カードが違えば演出要素としては使い分けられてしまう」という事態までも発生してしまいました。

例えば初日の昼公演では[秘密を告白する]と[正体を告白する]が別の扱いになっており、特に後者の[正体を告白する]で梶 裕貴さんが凄まじい展開に踏み込むんですけども、これは、“秘密”という語と“正体”という語の自由度、語義の範囲の差が顕著に出た事例と言えます*4

投稿された実際の文言を、丸めたり、丸めなかったりしているのであれば、そのあたりの編集のありかたについても、なんらかの解説があってほしい、と感じました。その解説があるとないとでは、演出くじの位置づけ自体が少々変わってしまうと考えます。

なお、「上記の予想は全部外れていて、ちゃんと投稿どおりに使ってるんじゃないの?」という疑念に関しては、これはもうほぼ疑う余地なくNOであろう、と判断しています。なぜなら、[カード2枚引き直せる]という演出カードがあったから。しかも一度だけの利用でさえありません。少なくとも2回は確認しています。

公式サイトに設置された投稿フォームをもちろん私も見ています。あのビジュアルの演出くじ欄に、こんな文言を投稿する方が複数いるとは、ちょっと思えませんね。

「演出くじ」が演出カードに丸められているとしたら

ここからはいささか確度の低い考察となります。考察といっても、作劇や舞台演出に関する話題であって、むしろ一般論に近くなると思いますけど。

さて、あらためて考えるに、そもそも“演出”というのは、舞台においてはある種の機能であって、原理的になんらかの効果をもたらすものと言えます。や、この書き方だと何を言ってんだ、って感じになりますね… つまり、“演出”は「なんらかの目的を果たすためのアイテム」である、と見ることができます。

ファイナルファンタジー』等のRPGを参考例に持ってきましょう。ゲーム内にはキャラクターがいて、彼らには体力=HPがあり、アイテムとして回復薬が設定されていますね。『ファイナルファンタジー』シリーズにおいては、ポーション・ハイポーション・エクスポーション*5…と効果が増していくアレです。この3種のアイテムは、「HPを回復する」という点においては同型で、効果の大小はあれど、カテゴリは同一と言えます。

…そう、これなんですよ。“演出”においても、このような「機能の大小はあれど、カテゴリは同一」がありうる。ありうるはずなんです。

強いて、この機能・カテゴリだけに注目を限定して“演出”を見てみれば、それは例えば「新規要素の追加」「既存要素の変化」「外界(舞台外)の情報の追加」「登場人物の関係の進行」「人物の描写」などに大分類が可能です。

逆に、ある程度機能が似通った演出を羅列してみれば、

  • ノローグを言う
  • 突然寝る
  • トイレに行く

などは「登場人物が一時的に独りになる」という点については同種の性質を持っています*6

などなどを踏まえて……。
もしも15枚の演出くじを完全にアトランダムに引き、手を加えないとすれば、表層の文言=機能の大小がどれだけ違っても、15枚がほぼすべて同カテゴリの演出になってしまう、という事態が考えられます。どころか、検証会で実際にそうなった可能性すらあります。

そして、「これは回らんぞ」と見なされれば…… まあ、そりゃあ、多少の編集、伐採・整頓はしますよねえ……みたいな。

とまあ、そんな推測をしているんですよ。どうなんでしょうね。

今回こそアンコール・ビューイングが即座に欲しかった

ここまでつらつらと振り返ってみてつくづく思いますが、とにかくZEROではアンコール・ビューイングが即座に欲しい。ひとつの公演内に持ち込まれている要素が、複層的で、かつ多いからです。特に、追加された演出カードについては、「劇中、いつ使われたか」を正確に確認する方法が、アンコールかディスクパッケージかしかありません。そして、アンコールまで時期が空いてしまうようでは、結局初見と変わらないぐらいまで忘れてしまう。

もともと私は、AD-LIVEに限らず、本公演から間をおかずに同一の公演を観ることがすごく好きです。これが非常に楽しくてですね、わりと細かいところまで覚えているうちにもう一回、しかも観客席側の反応はあらためて生で観られる、というのは、他に代えがたい唯一無二の体験なのです。

これが、現在のような「本公演からアンコールまでの期間が長い」という形では、できないんですよねえ! ほんとにもう!
……なので今回、1月18日公演のアンコールが即座に行われるのが本当に嬉しくて、そりゃもう速攻でチケットを押さえました。2回観るんですよ、2回!




だいたいこんなところでしょうか。
AD-LIVEについて、どんなことを語り、考えたとしても、すべては確認しようもなく、無意味なのかもしれません。それでも私は考えてしまうし、それを抜きにしては、会場に向かう理由も薄れてしまうような気がするので……これからもAD-LIVEと仲良くするために、その考えの物量はもはや《肥満型》*7だろ!と言われてしまうのも辞さず、考えたり書いたりしていきたいと思います。

*1:あとで掘り下げます。

*2:個人の感想ですが、2016はメリハリもあって出来がよいと感じる一方、2018は少々退屈です。

*3:今回、どうしても行けなかった1公演を除き、計7公演を確認しています。

*4:正確には、語義の範囲だけでなく、さらに加えて劇中文脈の範囲という拘束も受けます。アフタートークで梶さんが「正体として呼び出せるキャラクター」についての思案を解説してくださっているのがわかりやすいですね

*5:余談ですが、最初はここを『ドラゴンクエスト』としようと思い、「やくそう・上やくそう・特やくそう」と書くことを考えてやめました。

*6:それ以外の差はもちろんありますが、大きな機能には重なりがある、ということが主旨です。逆説的に、通常の作劇においては「ここで登場人物Aに独りになってもらいたい。ではBにはどういう演出で退場してもらおうか?」という発想になっています。

*7:モバ-LIVE引いてみた。ひどい。

『薄桜鬼』で悟った、乙女ゲームの音声に関するあれこれと、ちょっとだけ『真紅の焔』の話

なにか書きたくても、そのサムシングがなくってなあー。

というわけで、仕事の隙間時間を埋めるために、とりあえず書き始めます。あ、待ち時間が発生しているだけであって、これはサボりではないんでございますよ。


何がいいかなあ。…乙女ゲームですかね?


わりとちょいちょい乙女ゲームのエントリを起こしておいてアレですが、私個人は、乙女ゲームたるコンテンツをさほど心の「好きなもの」棚には置いていません。触れる機会はやたら作りますし、物語として面白がっていますが、ゲームすなわちインタラクティブ性を主軸にしたマルチメディアコンテンツとしては、さほど上位に食い込みません。電子式リッチ紙芝居という感覚で眺めているわけですね。好きなゲームはローグライクハクスラです。


さて、そんな乙女ゲームあれこれにおいて、私が超・強烈に「こいつぁヤベエ、乙女ゲームとはとんでもないかもしれんぞ」と思わされたのが、かの有名な『薄桜鬼』、正確にはそのPSP版です。

www.hakuoki.jp

この「PSP版です」という付言はとても重要でして、もしも私が最初に触れた『薄桜鬼』がPS2版であったなら、おそらくこの感想はなかったことでしょう。

その感想の根拠は、土方歳三(CV.三木眞一郎)ルートにあります。もう正確な場面はちょっと失念しましたが、土方がとてもとても低い、音量の小さい声で何事かをつぶやく、という場面がありました。*1

そのとき、イヤホンでプレイしていた私は、ぐっと息を詰め、耳をすます、ということをしました。そして、この行動を取らされたことそれ自体が、「あっ、とんでもないぞ?」という感想に直結しました。

恋しい相手のつぶやきに耳をすます、というアクションにおいて、主人公とプレイヤーが完全同期する、というのがこの演出の素晴らしい点なのですが、それ以前に、耳をすましてもなお聞き取れるかどうか、という音声が、作品=製品において許容されていることも無視できないポイントです。なぜそんなにマスターのボリュームが小さくてもよかったのか?

その理由は、「文字でもセリフが表現されているから」に他なりません。そのセリフを支えるのは音声だけではない、ということ。

そもそも論として、「文字と音の同期が強く保証される」コンテンツというのは意外と少数派です。アニメやドラマCDは音がメインであって文字が付随しません。音楽CDのパッケージにブックレットが同梱されていたって、同期の保証はありません。歌詞を読まずに聴くときだって多いですもの。歌詞が表示されるカラオケにしたって、自分で歌うことでようやく同期されるものです。

音声に対して文字が「ほぼ必ず」付随してくる、いえ、それさえ越えて、無音環境においては文字のみにさえなる、という、この「同期保証」の構図が何を生むか? それこそが、「聞き取れなくていい」音声の成立なのですよね!

文字の情報が読み取りや聞き取りを補助してくれるのであれば、音声はどんどんとその輪郭を失っていけます。「聞き取らせなければならない、耳で一度聞いただけでわかってもらわなければならない」という制約を取っ払えば、テンポどころか、音量も、発音さえも、もっともっと広大な幅をもってしまって構わないわけです。*2


ノベルゲームならではのこの特性を、おそらく『薄桜鬼』はよく承知していたのでしょう。
『薄桜鬼』に限らず、多くの乙女ゲームは、「BGMと効果音と音声のボリュームをそれぞれ個別に設定」「キャラクター別に音声をON/OFFする・音量を変更」など、音声周りのカスタマイズを充実させましたし、バイノーラル録音を利用した作品もいくつも生まれてきました。

しかし、こと「音声の輪郭のハンドリング」という点において、『薄桜鬼』ほど攻めている作品は結果的にあんまり出会っていません。もちろん、私個人の些少な経験においては、でありますし、いくつかは近い印象を持っている例があります。

その数少ない例のひとつが、『薄桜鬼』と同じく藤澤経清さんがプロデューサーを務めた『真紅の焔 真田忍法帳』、より正確には、そのうちの一人である真田信繁(CV.諏訪部順一)でございます!

www.otomate.jp

や、ほんとね、信繁様は、本当にすごいです。こんなに「最終的な仕上がり」についてきわめて自覚的に、しかも攻めッ攻めなディレクションで組み上がっているキャラクターには久しぶりに出会いました。ディレクター側、キャスト側、どちらがより主体を担っているかは消費者側からでは確定しようもないことですが、他のキャラクター達にその気配が強くない*3以上、担当なさった諏訪部さんのハンドリングの影響は大きいのでしょう。

……というわけで、『薄桜鬼』ともどもに『真紅の焔』を褒めるエントリでした!
もちろん仕事の隙間時間には到底書き終わらなかったですよ!

*1:こういうことをしがちな作品ですし、こういう呟きを漏らしがちな方に思えますね。

*2:もう一歩手前の例になりますが、口パクやコンテなどによって尺が規定されているアニメーションと、音声のみで進行するドラマCDとでは、キャスト側のテンポコントロールに大きな違いが生まれます。このような特性も、メディアごとの個性と言えますね。

*3:ないとまでは言いません。

【ネタバレなし!?】『ドキュメンターテイメント『AD-LIVE』のハナシ

ad-live-project.com


私にとって、ネタバレをせずに「この映画を観てくれよ!」という文章を書くのはとても難しいのですが、まあ、ねえ… 書かないのもそれはそれで、惜しい。

『映画』と聞いて(主に映画ファン以外が)イメージするものと違って、このタイプの『映画』というのは、そうそう長い期間映画館にかかるものではないですし、一期一会に似ていて、案外と願ったときには既に出会えなかったりするものだということがひとつ*1

もうひとつには、わりと大きい劇場で観たほうが、「制作側が想定する」、どころか「望む」鑑賞形態に近いであろうから、というのがその理由です。


ドキュメンターテイメント、直感的には「ドキュメント+エンターテイメント」について、本作はとてもよく「成功」しておりまして、タイトルで事前に想定された通り、2種のバランスをかなり綿密に行き来しつつ、グラデーション的に取り扱ってみせています。それはまさに『AD-LIVE』本公演さながら、『AD-LIVE』本公演を観劇する際に感じる「これが即興なの!?」「あっいま素が出た感じ!」のような、複層的かつ輻輳的な気分・思考の行ったり来たりを、確かにこの『映画』も感じさせる、という、かなり摩訶不思議な鑑賞体験になります。*2


ですが、たいへん面白いことに、この『映画』は『AD-LIVE』本公演を一度も観ていなくとも特に支障なく鑑賞できます。というのは、いくつかのパターンでその本公演のダイジェスト、あるいはミニマムなトライアルモデルが何度か、しかもていねいに開陳されているからです。それらを流れに乗って観ていくだけでも本質的なところが十分伝わるように整頓されています。

この「整頓」*3という工程が本作は実にみごとでして、パンフレットにおいて「ラブレター」と例えられたのもわかってしまうほど、全編にわたって真摯で、それでいてほんの少し独善的というか、それはちょっぴし個人的なんじゃないかしらん、という理解のされ方が垣間見えたりとかもします。

その意味ではむしろ、『AD-LIVE』どうこうは一旦さておいてしまうことさえでき、ドキュメンタリーとはなんぞ、映像とはなんぞ、映画や演劇の構築とはなんぞ、という点に興味がある方のほうが、ある種の偏愛の成立として鑑賞の甲斐があるのではないか、とすら思います。本作のカッティング、あるいは音響まわりのあれこれ、そのほかにも多数のものが、よってたかって監督の偏愛に手を貸しているであろうことが、とてもよくわかるからです。

本来ならここで、いくつかの類例、もしくは著名な過去作品を引っ張ってきてああだこうだ言いたいところなのですが、紹介した時点でネタバレに触れます。うん。この手法は使えないんだ、しょうがないね。


というわけで気を取り直して、なんとかネタバレをせずに語ってみようとするならば、スタッフクレジットと伴走する一連のシークエンスが、とくに象徴的かつ大胆ということになりましょう。

ある文字カットインを境に前半と後半に大雑把に分けられるのですが、後半のさらに最終盤には前半と後半が完全に合流してしまうつくりとなっております。さらに、その最終場面は「ドキュメンターテイメント」という名が表す体そのものであり、そのまま『AD-LIVE』とは何かそのものにも最接近する、というような、もうね、おみごとですね。

『AD-LIVE』と『ドキュメンターテイメント「AD-LIVE」』はとても共犯的な関係にあり、この共犯関係は、今後の『AD-LIVE』を強く支えてくれることでしょう。

本当に、この映画があってくれてよかったと思っています。パッケージになってほしいですね。観られなくなるのは惜しすぎますよ。


2/12の時点で、都内近郊では、
・TOHOシネマズ錦糸町
・MOVIX昭島
ぐらいしか上映館が残っておりませんで、しかも錦糸町については2/14で上映終了予定、ということで、見逃している方にとっては相当タイトです。しかも1日1回上映なんでね、なかなかお時間が合わないという方もいるでしょうけれども。

2/12時点での上映館リストも一応貼っておこうかなあ……  ざくっと調べた終了日程も込みで。

宮城県 TOHOシネマズ 仙台 2月14日(木)まで
東京 TOHOシネマズ 錦糸町 2月14日(木)まで
東京 MOVIX昭島 2月14日(木)まで?
千葉県 TOHOシネマズ 流山おおたかの森 2月14日(木)まで
埼玉県 MOVIX三郷 2月14日(木)まで
愛知県 ミッドランド・スクエアシネマ 2月14日(木)まで
愛知県 TOHOシネマズ 名古屋ベイシティ 2月14日(木)まで
石川県 金沢コロナシネマワールド 2月15日(金)まで
大阪府 大阪ステーションシティシネマ 2月14日(木)まで
兵庫県 109シネマズHAT神戸 2月14日(木)まで
徳島県 ufotable CINEMA 2月15日(金)まで


まあ、なんというか、気になった方はぜひ観てください。
私はとてもとても気に入っておりまして、「ちゃんと」観た方と語り合ってみたいです、ええ、ぜひ。


……ちゃんとネタバレしないでできているか、すっげー不安!

*1:パッケージの入手機会が薄かったり、もちろんレンタルにも出回らなかったり、配信もなかったり

*2:もうちょっと詳しく言いたいのですが、この時点でかなりネタバレすれすれです。タイトルの時点でおおよそ予想できる範囲のことについて、「その通りでした」とだけ言っているつもりなんですが。

*3:カギカッコ付きの「整頓」です。

乙女ゲームの「良い」とはなんぞやという徒然書き

ちょっと気乗りしたので、構成も練らずに書き始めてみますね。

最近はとある事情から『遥かなる時空の中で6』を駆け抜けておりまして、「大したもんだ」としみじみとなる場面をいくつも見かけ、そのたびに手を止めてはとっぷりと堪能する、というようなことをしています。

こと乙女ゲームに関する限り、自分の中での「良い」という感覚はほとんどの場合極めて明瞭で、これは良い、特にここがだな、と、かなりピンポイントで指定可能です。不思議なことですが、「良い」というエッジ-輪郭-のようなもの、あるいは想起される感情の起伏の屈折点、自分のうちに発生させられる*1想いの発火剤を絞り込んで示すことができます。

攻略途中の現時点では、という但し書きは絶対に必要なものの、特に見事すぎるほど見事だったのが萩尾九段であり、エピソードの佇まい、人物像の描き出し方においては頭一つ抜けているのではないか*2、というのが現時点でのもっぱらの感想です。特に、以下ネタバレにつき反転軍邸においてドレス姿に着替えた高塚梓を目撃したとたんに動悸を訴え、村雨を引き合いに出してまで自らの言葉の至らなさ(ただしそれが率直さそのもの)を吐露し、「出直してくる」と1時間中座し(着替えずに1時間待つ梓も梓だ)、以前梓に美しいと褒められた千代紙の花束を携えて駆け戻ってくる】という場面は、九段という人物の人柄、それに対する梓の応じ方、過去のエピソードの再利用が結実しておりまして、出色の出来栄えです。特に、場面内に明示された時間的な余白に対する認識が梓とプレイヤーで完全に一致しており、その余白の間に九段がどのような行動を取っていたのかをありありと想像してしまう、梓も、そして私たちも!というシンクロもまた素晴らしい。

さらに重ねて、周回プレイを前提とする本作において、特に大物語のキーになるイベントに付随するエピソードだというのもまたポイントで、他の攻略対象と捌き方が大きく異なる、という点でも、印象的な場面となっています。個別のエピソードもいいが、共通イベントまわりでの差別化もいいよネ!


もちろん、制作陣の制作上のリソース、あるいは情熱、あるいは誠実さは建前上、そして実際も、攻略対象みなにそれなりに等しく注がれているものでしょうから、ことさらに彼が相対的な意味で情熱的に立ち上げられたわけではないのでしょう。九段を例にあげたものの、他の登場人物たちに見せ場がないかというと全然そんなことはないわけです。なんなら『遥か6』は相当コンセプチュアルな人物「分担」を見事成し遂げていて、割り振りが非常によく仕上げられているような印象さえあります。ていねいな作りだなあ、と思いながら触れてますよ。選択肢のハンドリングも非常に適切ですもんね。感情線として無理がなく、それでいて登場人物のリアクションへの深堀り要請も満たしている、お手本のような選択肢ばかりです。


いやしかしですね、いくつかの乙女ゲームには「キラー」というような登場人物がいてしまうじゃないですか。『ニル・アドミラリの天秤』における尾崎隼人はやはりかなりいろんなものが突っ込まれていますし、『Wand of Fortune II』のアルバロ・ガレイはほとんどびっくり箱状態、というか、彼はシステム的にも特例をもらっているので、「キラー」でないとおかしいとも言えます。

もちろん、設定上、シナリオ上、システム上の「特別」とはまったく別の理路で、ただ出来の良さの一点で「キラー」化してしまう登場人物もいて、かの『薄桜鬼』における斎藤一沖田総司はただただ「キラー」なんだと思いますよね。なんだありゃ。や、あれは「キラー」ですよ、わかるけども!


そう、出来の良さとは、意図して設計された構造だけではなくて、なんらかの「熱」、うまくいっている何か、多くの歯車のかみ合い方にもよるのだと思います。これは私がそう推測しているのですが、ちゃんと見つめるとですね、乙女ゲームにおける「人気投票」というのはかなり正確に順位の予想ができるように思ったりとか。乙女ゲームにおいてはマジであてになると思うんですよ、人気投票。「出来の良さ」という点で。自分の趣味・好みとは一致しなくても、出来の良さの指標としてね。


その点で、今もっとも人気投票の結果が見てみたいのが『真紅の焔 真田忍法帳』です*3。あの作品、人物ごとの力のバランスが何だかおっかしいんで、それがきっと露骨に出ちゃうと思うんだよね。すっごく気になる。誰がどれぐらいぶっ放すのかが。や、何をどうやったって『真紅の焔』が今さら人気投票をやるわけがないのですが、あれですよ、乙女ゲームの「良い」を考える一例として、実に象徴的な一作でした。しばらく大切にすると思います、『真紅の焔』。


なんだか意外なところに着地しましたが、ちょっとした手慰みとしては楽しい文章でした。では、引き続き『遥か6』攻略、粛々と進行したいと思います。

*1:「させられる」であって、「する」ではありません。

*2:もちろん個人的な感想にすぎません。

*3:『CharadeManiacs』はやっていただいたので、たいへんありがとう。大笑いしました。

たまには手慰みみたいな文章を書いてもいいじゃないの

「誰かに読まれる」ことに比重を置かず、「自分が書き読む」ために書くってこともたまにはあっていいわけだと思うのです。

まあもちろんこの時期ですから、AD-LIVE2018のライブビューイングに日々向かっては笑ったり涙したり、出演者の、そして舞台裏の皆様の技に瞠目したり、そんなことをしていますが、それはそれとして、日々、worksとjobsがあり、taskがあり、communicationがあったりしています。

近頃は、その多くで「引き受けている」感覚が強く、実はそのいくらかは錯覚であるわけなんですけども、事実として、依頼するよりはされる側感があります。我々は日々、誰かにたのまれごとをしなから過ごしていますね。

「たのまれごと」はさまざまな形でやってきて、有形の対価があるもの、ないもの、内面から湧き上がるもの──この内面とは生物的本能であったり、理性や倫理観による自律自制であったり、時に感情だったりする──ような感じです。

同時に、多くは外的規範の形をとる「たのまれごと=よき姿であれという漠然とした外圧」を、かなりのレベルで無視をし続けざるを得ません。


食事や睡眠、健康、金銭感覚、家族や友人との人間関係、公共での、あるいは界隈でのマナーやモラル、日用品や家電等の取り扱い、どんな場面やどんな対象を取り上げても、あらゆる事物に「よい◯◯」は必ず付随していて、そのすべてをもれなく愚直に守り続けては到底いられないわけじゃないですか。

自分が所有しているもののすべてを適切にメンテナンスしてますか?
エアコンは? シンクのパイプは?
シャツの漂白やクリーニング、靴の脱臭?
睡眠は8時間、野菜は1日300g、適度な運動に瞑想をし、
よき子であり、よき家族であり、
よき夫で、よき妻であり、
モンスターペアレントにもクレーマーにもならず、
仕事では有能で、向上心を忘れずに技術を磨き、
政治に対して一定の見識を持ち、投票権があるなら選挙には行き、
もちろん適当に票を投じることもせず、
ブラック企業を憎み、困っている隣人を助け、
清潔感を大切にしながらファッションをエンジョイし、
エンタメを楽しみ、偏見を持たず、
平易なポリティカルコレクトネスに準じ、
他者を罵倒せず、嘘には騙されず、
持続可能な社会のためにできることをし、
ゴミを分別し、リサイクルに努め、


このままいくらでも続けられるんですが、まあ、キリがないので。

やっていけてることもあるけれど、取りこぼしているものもあって、でも、これらをまるですべて実践しているかのように見える方が世の中にはあふれているわけで、それはまあ、漠然としたコンプレックスも抱きますよね。やってられっかー。自分が網羅的でない雑さを有していると、どうしたって自分がいちばんよく知っている。


一方で、社会的動物の根源的欲求として、私は「世界をよくしたい」みたいな漠然としたことも思っていて、その結果として、非常に多くの場面で外面よく振る舞います。仕事場でも、どこかの店でも、接する人には基本的に穏当に、にこやかに、機嫌よくありたいですし、仮になんらかの怒りや苦情を申し立てる場合であっても、内容に対してちょうどいい規模の感情でもって振る舞いたいと思います(100%ではないまでも、ほとんどの場合で成功します)。
ちょっと関わりがあった人が気持ち良い人柄だったこと、仕事でふとすれ違った人がにこやかだったこと、小さいことでもちゃんと受け止めてくれたこと、そういう些細なことが人生のあたたかさを増すのをよく知っているので、それを極力生産する側に立つことで、何かをよくする、よくしたい。


「よき◯◯」への抑圧、そこへの諦念と、世界に対して善良さを保持する努力は、かなりの程度で相反するというか、「聖人君子じゃいられない/でもまあ良き自分でありたい」のバランスであって、無理ムリ、これは無理、と雑に投げ出しながらも、自分が接するあれこれには、まあ、できる範囲でていねいに当たっていくわけですね。


この「ていねいに当たっていく」ことにも実はそろそろうんざりしてもいるんですけど、それでも友人から見た私はどうやら精神の安定している常識的な人物に見えるらしく(私のどうしようもなさ、抜かりのあれこれを知っている方もいるわけですよ、もちろん)、それは別に間違っているわけではない、というかそう見えるように振舞っているのですから一種の成功の類ですらありますが、いや何って、それは努力の成果物でもあるのです。当たり前のようにやってるわけじゃねえぞ。
いや、当たり前なんだけれども、今の自分のありざま*1は断じてノーコストではない。こんな自然体があってたまるか。


わたしはノーコストではないんだぞ、とあえて明言するにともなって、「あなた」だってノーコストではないはずだ、と、私は考えます。


「あなた」もだいたいにおいてこうあるはずでしょう。力の分配や重視するポイント、そのために犠牲にする分野はそれぞれに違うだろうけれども、ひとは「常に漠然と『よさ』に向かい続ける」構造になっているわけで──向かったことによって遡及的に「よさ」が決定されるせいはあるにせよ──そりゃ、誰だって、「あなた」だって、日々、コストを支払って『よく』しているに違いない。

みんなそうなんだよねー。多かれ、少なかれ、さあ。

そんなことを喫茶店で書いていたら、「Wouldn't It Be Nice」*2が流れ始めた。歌詞を見ずともなんとなく口ずさめる英語楽曲のひとつ。

イッツオーケー。おたがい、やっていきましょうね。

もしも、かけらも「自然」じゃない振る舞いが私をヒトからニンゲンにするのだとしたら、ニンゲン上等、ヒトになるのは眠っている時だけで十分です。

*1:造語です。ニュアンスを感じてほしい。

*2:邦訳タイトルの「素敵じゃないか」も好き。

キミとボクとの約束――AD-LIVEの小道具が〈本物〉である理由

AD-LIVE2017のパッケージ版が発売され始め、そろそろAD-LIVE2018の足音がわれわれ観客側にも聞こえ始めた頃合いでございますね。

そろそろこの話をちゃんとまとめておきたいと思います。今回のトピックは、「なぜAD-LIVEの小道具は〈本物〉なのか」です。

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『GRANBLUE FANTASY』のサンダルフォンにまんまと釣られた話、あるいは「感情が大きい」キャラクターを思い出す

まさかこんなお題で一気に書くとは思いませんでした。書きながら未だに戸惑っている。


鈴村健一氏の芝居は基本的にどれも興味深いというか、自分の中にある期待に応えてもらえる打率が著しく高いので、「演じるのが鈴村健一氏である」というだけでわりとチェックしています。

その中で最近出てきたのが、タイトルにある、『GRANBLUE FANTASY』のサンダルフォンです。

ちょうど今日始まったイベント、「失楽園〜どうして空は蒼いのか PartII」でようやくプレイアブルキャラクターとして参戦することになった人物……というのは後から調べて知ったことであって、実はそのPartIを私はプレイしていない。すいません、『グラブル』は完全にログインゲーでして、本当に全然やってなかったんですよ……

ただ、今回のイベントを通読するだけでも垣間見える大まかな流れとして、彼、サンダルフォンは、「Part I」においてはほとんど悪役のポジションというか、大災害の引き金を、災害と分かっていて自ら積極的に引いた、いわゆる「理知的なキレキャラ」であるらしいんですね。

そして、「Part II」開幕時点では、その騒動はいったん鎮圧されていて、サンダルフォンも行方知れず。ただ、ヒロインである蒼い髪の少女・ルリア(CV.東山奈央)は、サンダルフォンを完全な悪人だとはどうしても思えずにいる……という感じの導入から今回のイベントは始まる。そこに、サンダルフォンとかつて懇意であった*1天司長・ルシフェル(CV.櫻井孝宏)、そのルシフェルに忍び寄る黒衣の男(CV.????*2)、ルリアに声をかけてくる怪しげな男(CV.細谷佳正)あたりが物語を揺らしてくる存在として存在している。

それでですね…… この「失楽園」のストーリーをフルボイスで追っているとですね、このサンダルフォンがとにかく「感情が大きい」人物である、ということがよく分かってくる。

知ってる、この感覚は知ってる……そう、そうだ、『Fate』の間桐慎二だ!

※参考記事。この記事を読んだおかげで映画館に駆け込んだ
note.mu

間桐慎二衛宮士郎に向けるあの感情の巨大さを、ルシフェルに対してのサンダルフォンも持っている。
(以下ネタバレにつき、一応反転。サンダルフォンの反応のことしか書いてませんけど)
とにかくサンダルフォンは終始ルシフェルとの関係を問い続け、切り替えようとし続け、苦悩し、諦め、卑屈になり、心にもないようなうわべだけ利口なことを言ってはヒロインにその拗ね方を指摘されてキレ返し、キレた結果として引きこもりを脱したらそれも相手の悪意の産物であろうと嘯いてみせ、そのくせルシフェルの現状を知った途端に大いに取り乱し、かと言って自分が信用されていたと知れば逆ギレし、相手が変わらず清廉潔白・無私無欲であればもっと他に何かないのかと怒り、その「何か」をのぞかせた途端に今度は「嘘でしょう」とこぼし、事態が悪化するに至っては「始末をつけてくれ」というルシフェルの願いをもう生涯の誓いか何かのように魂の中心に据え、そのためならば死んでもいい、命も尽きよとばかりに全力をブッパしてしまう。(反転ここまで)

なんだこの人。面白いんですけども。

見事なのは、その「感情の大きさ」を鈴村氏が見事にドライブしていることなんですよ。とにかくこの「サンダルフォン」という人物たるや、隅から隅までめんどくさい、根暗で卑屈でこじらせていて、しかしそれは完全無欠の天司長・ルシフェルの存在があまりに自分の中で大きいことからくる、いわば崇敬のような情念*3に根ざしているので根本的には熱血にも似た忠誠心のような絶対遵守感というか、直向きを極めて視野狭窄のレベルにまで到達している猪突猛進さだったりとか、なんかもうこの人本当に面倒臭い!! そしてその面倒臭い精神性が声に表れている!! 「うわあ、うわあ」とつぶやきながら一気に最後までエピソードを追ってしまいました(さほど育ってなくてもイベントが走れる親切設計で、たいへんありがたかったです)。あ、ちょっとウルッとしました。


……何を言いたいかというと、こういうキャラ造形は極めてラウンド(立体的)な作りである、キャラクター類型でいうところの「ラウンド・キャラクター」であるわけですが、そんな複雑さを「見せなくてはならない」人物を預かり、しかもソーシャルゲームという短いシナリオの中で激しく*4ドリブンし、表現として十分達成している点がつくづくすごいと思うのですね。本当に、私は鈴村さんのこういう芝居の巧みさに触れるのが大好きです。

この逆側には細谷佳正氏が演じる謎の男ことベリアルがいて、このベリアルさんは基本的にどこで何をやっていても、性根は変わらないし、その表出の仕方もほぼ変わらない、いわばフラット(平面的)。この「フラット・キャラクター」としてベリアルはすばらしいコントロールの下にあり、それはそれで細谷氏の見事な仕事で、たいへんおいしゅうございました。


正直、鈴村さんがここまで「感情が大きい」キャラクターを演じているのはちょっと思い出す限りは記憶にない。というか、そもそもこの「感情が大きい」というのは「激情家」とはまたちょっと違うカテゴリなので、こういうカテゴリのキャラクター自体がそんなにいません。
特殊な執着、好意や敬意が反転し、変転し、違う形で表れてくるという点では『Wand of Fortune』シリーズのアルバロ・ガレイは共通するところがあるキャラクターかと思いますが、彼は自分の感情の巨大さを切り刻んでしまえる特殊能力を併せ持っているので、かのサンダルフォンのように支離滅裂にはなりません(難解なだけです)。


いやあー……私は『Fate』劇場版における神谷浩史氏の芝居の仕上がりに震え上がり、この芝居を聴くために映画館に行ったのではないかとすら思ったのですが、まさかまさか、『グラブル』で、鈴村さんで、ここまで「感情が大きい」キャラクターに出会えるとは…… 本当に嬉しいですよ。

今日は幸せです。こうして一気にブログを書いてしまうぐらい!
ありがとう『グラブル』! ありがとう鈴村さん!


……ところで、こういう「感情の大きい」キャラクターが『グラブル』には多数出てくるのでしょうか。だとしたら、シナリオゲームとして人気が出るのはとてもよくわかる。魅力的ですもんね。

*1:「懇意だった」だけでは済まない関係が彼らにはあるが、そこは伏せる

*2:小西克幸さんに聞こえますね。

*3:反転して劣等感だったり

*4:というか、短いからこそ激しくやらないとその立体感が立ち上がってこない。