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作品の楽しみ方に〈探索型〉と〈観光型〉とがある説

みなさん、今日もゲームしてますか! そして、攻略情報、見てますか!


……というわけで、幅広く「ゲーム」を遊ぶことを考えたとき、「攻略情報を見るか、見ないか?」というポイントがあると思うんです。作品のタイプや、作品(のとある場面の)難度*1に影響されたり、もちろんネタバレの大きさとか、そういう、いろんなものの兼ね合い、複合的な判断で、攻略を見たり見なかったりするのではないでしょうか。

例えば謎解きゲームにおいて、攻略情報をすべて見てしまえば、もはや実質ノベルだ!とか、ノベルゲームにおいて正解選択肢を全部見てしまえば、それはもう音付き小説なのでは!とか、攻略情報がゲーム性を骨抜きにしてしまうパターンがあると思います。

一方で、いくら攻略情報、あるいは攻略動画を観たところで、手もとの操作が追いつかず、「できる気がしない!?」ってこともありますよね。その場合は、攻略動画なんて単なる見本、お手本にしかすぎません。


さて、私がたびたび取り扱う「乙女ゲーム」には、攻略情報の一歩手前に、こういうのがあります。

オススメの攻略順問題。

これがもう、実に根強い。攻略情報そのものは見なくても、これを確認している方は多いのではないでしょうか。
ネタバレは見たくない。でも、まかり間違って興ざめな順番で攻略してしまったらもったいない。
そんな思いが、「オススメの攻略順は?」という問いになって出てくるのだと思います。

物語の核心に迫る――つまり作品の物語の全容がまるっと見えてしまう――ポジションの人を後回しにするような感じでオススメされる場合が多い気がします。なんとなく。


この「オススメの攻略順」というのが、ほんとうにナビゲーターみたいだなあ、と感じて、それでふと思ったんですよ。作品に触れるにも、〈探索型〉のアプローチと〈観光型〉のアプローチがあるのではないか、と。これは別にノベルゲームに限った話ではなくて、攻略情報を片手に、次に表れるものを知りながら進めていく場合は〈観光型〉でしょうし、ネタバレを極力避け、一体何が起こるのか分からず待ち構えながら進んでいく場合は〈探索型〉と言えるでしょう。

〈探索型〉と〈観光型〉はオンオフというか、排他的とは限らなくて、謎解き部分は攻略を見るけど、ストーリーはネタバレを一切見ないとか、敵のステータスは全部見るけど倒し方のコツは見ないとか、複合的なアプローチになりうるはずです。重要なところは自力で頑張るけど、小さいあれこれは見逃したくないから攻略を見る、とか、そういうバランスもありえますよね。

〈探索型〉のほうが、自分であれこれ探って確認しなければならない分、回り道やロスも多くなるはずで、基本的にはかかる労力は〈探索型〉>>〈観光型〉だと思います。

そして、しばしばその〈探索型〉のコストは、大きすぎる。

これは私個人の話ですが、大体の場合、自分が本気で大好きになりそうな作品は〈探索型〉にしたがります。時間を費やして本気で考えることが楽しいからです。一方で、ゆるく、手軽に、あるいは時間がない中でも隅々まで楽しみたい時には、攻略情報をどんどん参考にし始めます。あとはあれですね、失敗できない系ソシャゲとか。〈観光型〉だから愛が薄いってこともなく、とにかく時間や労力のロスを嫌って、わき目もふらずに美味しいところを逃さず味わいたい!という時も、〈観光型〉アプローチを併用するんですよね。


と、そんなことを考えてました。
今の自分が、ある作品に対して触れようとするとき、自分が〈探索型〉と〈観光型〉のどちらのアプローチを取ろうとしているか、どちらを取るのがより楽しめるか?と考えることで、作品との付き合い方がより自覚的に、スマートになった気がします。


ところで、AD-LIVEは*2、即興劇という性質上、必然的にものすごく〈探索型〉アプローチに寄らざるを得ません。〈観光型〉にしにくいんですよね。ここ、AD-LIVEを人に紹介するうえではすごく難しいポイントだと思っています。

AD-LIVEプロジェクト公式が自らセレクションをして提示してくれる機会がありました*3が、あの時に思いました、彼らはこの難しさを分かっているに違いない、と……。だってあまりに素晴らしいセレクトでしたから。完璧でした。


そんなわけで、AD-LIVEプロジェクトには、どこかで大きな〈観光型〉アプローチの手はずを整えてほしいんですよ。この際、全部の公演のレポートをまとめたガイドブックとか、いいと思うんですけど!

*1:難易度、としないのは、易しさよりも難しさに力点があると思うので。

*2:私はほんとうにAD-LIVEの話ばかりしていますね。楽しくってつい。

*3:ニコニコ動画の一部無料公開などの形態。ファミリー劇場での放映はひらたく全部やっているのでまた別もの。

工夫と不謹慎のグラデーション、あるいはAD-LIVE2020 無観客公演の可能性を考えてしまうこと

日本どころか世界中が揺れるさなかであります。
当然私も、そしてあなたも、この圧倒的な危難とは無関係でなく、不安になったり、楽しみにしていたものがなくなってしまったり、そもそもご自分の生活にだって大きな影響が出ていることでしょう。おつかれさまです。たいへんですよね…。

身体も心もどうにも休まらず、でもやれることと言えば極力ひきこもるぐらいで、そうしてひきこもっていれば春の日差しはうららかで、家の中にいるばかりでは暇も感じますし、となれば、外のエマージェンシー具合と、目の前に広がる閑散とした風景の落差が身に迫ったり、あるいは身に迫らな過ぎて実感がどうにも伴わなかったりするのではないでしょうか。

あるいは、まさに危難の渦中に呑まれ、ご自分の仕事がまさにこの緊急時に対応するために忙しくなった方も、お読みになっている方の中にはおられるのでしょうか。頭が下がります。今、まさに働いている方々は、社会の最前線でこの危難に立ち向かっている方です。あなたが支えているものはとても尊いものであると、私はよく知っているつもりです。本当にありがとうございます。


その苦労の重さや形に個々人差はあれど、なんにせよ私たちはそれぞれに日々、毎日をつむいでいかねばなりません。ご飯は食べねばならないし、トイレにも当然行くし、できればマスクは欲しい。そして、毎日をつむいでいくためには、精神の余裕、豊かさ、美味しいものが美味しかったり、楽しいものが楽しかったりすることもやっぱり必要です。延々とふさぎ込んでいるばかりではとても持ちませんから。

さらには、もしもできるならば、その「毎日をつむぐ」ことが、自分たちの好きなあれこれ、あちらこちらにも巡るようにありたいものです。極力なじみの店で食事をテイクアウトしてみたり、支援を求めるゲームセンターに投げ銭したり、こんな時だからこそ通販ででも買い物をしたりも。

私も、「お互いが生み出すものをやり取りしながら生きていく」ということを、あらためて見つめています。日々のスタイルを切り替えたからこそ、今まで自然に支援できていたことも積極的にならないと維持できなかったり、あえて立ち向かったりしないといけない部分は出てくるし、あるいは、切り替えたからこそ生まれる新たな何かの予感も、実はやっぱりあったりするのだと思います。

今回の一件をポジティブに捉えることはまだまだ、どころか今後も全くできないかもしれないけれど、環境が変わって生まれくるもの、あるいは、制限のもとだからこそできること、挑み、成し遂げ、輝きを放つこともまた、まったくゼロではないはずです。


いくつかのテレビやラジオ番組が、リモート収録を始めたと聞き及んでいます。収録チームを急遽集めて無観客で上演した音楽劇『VOICARION』が映像配信を来月には行います。実は私もいままさに本職のほうでちょっとした挑戦が始まっていて、それはもちろん前者ふたつに比べれば大したことではありませんが、まあでもそれなりに、誰かの日常的な何かを維持するためのほんのきれっぱし程度には存在するであろうものです。

結局のところ、今まで泳いでいた海でまだ泳いでいるし、もしかしたらその仕事は見ようによっては「不要不急」かもしれないけれども、いやいや、結局のところ仕事って「毎日」そのものでして、できる範囲ではやっていったほうがいいと思うんですよ。まずは「社会」を維持できるよう人と距離を取ることを優先しながらも、「毎日」を維持するための普段の活動も少しずつね、というバランスで。



で、AD-LIVEの話です。唐突でごめんなさい。

ぶっちゃけてしまうと、今、私は今年のAD-LIVEの可能性を考えることで遊んでいます。それも、無観客であることを覚悟したAD-LIVEの可能性を、です。
AD-LIVEはそもそもライブビューイングとの関わりが既に強く、無観客(配信中心)への切り替えのやりやすさに関しては、数ある演劇コンテンツの中でもかなり適して――あるいは準備が整って――いるほうだ、と言ってもいいと思います。

もちろん、単純に今まで通りの映画館でのライブビューイングというわけにはいかないでしょう。第一それ以前に、スタッフの皆様、出演者の皆様の安全のことを考えれば、観客だけ排したって意味は薄い、スタッフが一堂に集まるのはリスキーだ、と考えてしかるべきだとも。
それでも、「観客がその場に絶対に居ないことがわかっているなら、だからこそ逆に」やれることがある、という視点で考えること自体は、可能だと思いませんか。

例えば3人構成にしておいて、途中で1人が実際に観客席に降りて観客の立場に収まってしまう(=お互いに見せ合う形を作り上げる)こともできるし、ハンディカメラ中心の画面作りだっていけそうですね。カメラを前提にした構造をうまく利用したら、他の演者に知られないモノローグを観客向けに演じることもできるようになります。派手な隠し事ができちゃいますね。
こうして、ばーっとフラッシュアイデアで並べるだけでも、可能性は山ほどあります。無観客で配信が前提の舞台演劇、という事例自体がそもそも少なそうで、だったら、あらゆるものが実質バージンスノーになりえるのでは?
そう考えるとどうしてもわくわくしちゃって、AD-LIVEがどんな可能性を踏みしめられるのか、想像は尽きません。


もちろん、この危難が一刻も早く終息するのが何よりで、そのための努力は私も日々惜しみません。公演の日までに事態が収まって、何事もなく、今までの日常のように公演が行われることが一番だし、それを心より願います。

ただ! それはさておきですよ!! このような強烈な制約が一時的とはいえ発生している今、その条件下だからこそ生み出されるかもしれない珠玉の工夫を想像してしまうのですよね。……だって、そんな決死の抵抗、強引な工夫の可能性をですよ、まったく検討すらしないままに「絶対にやるべきではない」と中止を決断するでしょうか? あの総合プロデューサーが?

挑むための工夫、想像、検討を、考えないわけはないと思うんですよね。それが仮に一瞬で傾く天秤であったり、実らない可能性であったとしても。

だって、やっぱり私たちの生活にはエンターテイメントが必要だし、彼に――彼らにとっては、そのエンターテイメントへの挑戦こそが「いつもの毎日」なのでしょうから。

私達がこれから過ごす日々は厳しく、もしかしたら今、漠然と想像するよりも、もっとひどく重く垂れこめてしまうかもしれないけれども、それでも私達それぞれに、彼らにもそれぞれ「毎日」があり、「毎日」をそれぞれに生きていくしかありません。悲しみ、苦しむ誰かからすれば「考えることすら不謹慎だ」と見えるにしても、「けれど、私にとってこれは”生きる”ことそのものなんだ」と、向き合っていく瞬間も、時にはありえていいと私は思います。


最近の毎日はしんどいですね。これから、きっともっと激しくしんどくなる瞬間が来てもおかしくない。
それでも、だからといって、楽しんで悪いってことにはならないでほしいなあ、と思っています。

というわけでした。みなさんも、やっていきましょうね。

私は最近、『Death Stranding(デス・ストランディング)』(PS4公式サイト)を始めました。津田健次郎さん演じるサム・ポーター・ブリッジズとの長いお付き合いの予感。まだまだ序盤ですが、めっちゃくちゃ面白いです。

Nintendo Switchをお持ちの方には、4月30日配信開始の『グノーシア』(ダウンロード専売・PS Vita版あり。Switch版公式サイト)を全力でオススメ。最高だからホント。


それと、このブログでは、今後コロナ関連の話題は極力取り扱わないことにします。
真剣に考えてくださる方々に心からの敬意を向けつつ、ただひとりの私個人としては、「そういうのから気持ちを緩めていくこと」に向き合っていきたいからです。

そんなわけで、今後はちょっとずつ、些末でポジティブなネタを頻繁に投稿していけたらいいな、と思います。

実はずーっと森久保祥太郎さんについて考えて、考えて、まとめてるんですよ。優に1万字超え。……些末とは??

AD-LIVE ZEROについてちょっと書く〜各取り組みの効果と結果をつらつらと

あけましておめでとうございます。2020年も書いたり書かなかったりしていきたいです。


さて。徳島公演が思わぬ形で決着したために、なんとなく機を逸していたテキストがありまして。

あらためての追加公演も間近に迫ったということで、下書きで眠っていたものを供養的に引っ張り出してみようかと思いました。大部分は徳島公演の中止の直後ぐらいに書いてたものです。

AD-LIVE 2019 あらため AD-LIVE ZEROで見えたことについて。

くじが事前に見られること〜転生トラック的省略のあり方

冒頭のトークコーナー、および終劇後のアフタートークが設定されたように、そもそも公演全体の枠組みが違ったAD-LIVE ZEROです。開幕にキャラクターの情報や舞台設定がある程度晒されているだけでなく、演出要素*1も「くじ」の形にしてオープン。劇中、30分経過で3枚追加する、という伏せカードはあったものの、これが莫大な威力を発揮した例はさほど多くなく、かつ、すべての演出カードはもれなく使用されなければならなかったので、観客側からすると追加カードの意義はそんなに大きくなかったと思います。少なくとも、初めて観劇した時点では「よくわかんなかったな」となりやすいと思うんですよね。

さて、まず触れたいのは、「設定があらすじに書いてある」ゆえに、劇中で説明しなくてもよくなる、という構造です。
以前、当ブログでは「AD-LIVEでは約束が難しい」という趣旨のことを書きました。

talko.hateblo.jp

一方、今回のAD-LIVE ZEROのように、事前に一覧で情報を開示してしまえば誤解の余地もないし、すでに決定・約束された事項として取り扱ってもらえます。つまり、冒頭のテンプレ的情報交換、世界観のベースの構築・確認を一部省略できる。

このような省略を生かした例としては、見出しの通り、「転生トラック」が挙げられると思うんですよ。「なろう小説」に代表される、ネット連載型ノベルの一大ジャンル、異世界転生ものにおいて、主人公が異世界に転生するきっかけを作るのによく登場するのがトラックによる交通事故です。ゆえに、このトラックを指して俗に「転生トラック」と言います。

転生トラックが流行した理由は容易に了解できます。それは、異世界に転生するまでのくだりで個性を出す必然性は通常なく、とにかく早く異世界の場面に入りたいから異世界に転生して、その異世界を描写するのが作品のメインであるからには、主人公には可及的速やかに、しかも文句の余地なく現世から退場してもらいたいですし、その場面でエキセントリックなことをする必要はないわけですよ。雑なテンプレで構わない、どころか、読み飛ばせるぶん、雑であるほうが良い、とすら言えます。一瞬で通過したいくだりなんですから。

同様に、AD-LIVEの舞台においても、「はじめまして」から「ここどこですか」「あなたはどうしてここに」などの冒頭場面を探り探り、言い換えれば約束できるほどていねいに積んでいくとなると、いささかくどく、テンプレ的になる可能性は高いと言えます。90分より短い60分の尺でドラマを展開させる条件下では、積極的に省略していけるポイントだったということだったのではないでしょうか。

もっと極端な例としては、AD-LIVE 2016の開幕シークエンスや、2018の冒頭の読み上げなどがあります。演者によるアレンジがまったく入らないため、全公演が完全に同一の進行をしますし、それにしては尺が長いですから、通い詰めるぐらい通った人にとっては飽きやすいポイントだったかもしれませんね。*2

演出要素の類型と、使い物にならなかったあれやこれ

はい、私的には問題の項目です。冒頭のトークコーナーでは「演出くじ」と言われていましたが、あえてここでは演出カードと言い換えておくことにします。

というのは、あまりにも各カードの再利用の度合いが高すぎたからです。くじと呼べるほど使い捨てられていません。

全公演に必ず含まれた[オールマイティ]を除いた開幕の14枚+追加の3枚で1公演あたり17枚、4日間×昼夜2公演で、のべ136枚の採用があったわけですが……おそらく、種別を挙げても到底100種*3には至らないでしょう。ともすると70種すら下回りかねない。それくらい、同じ演出カードが再利用されていました。

中でも特に露骨だったのは、[あっちむいてほいほいほい]と、[第3者が乱入する]でしょう。ふつう、「だいさんしゃ」と入力して変換すると「第三者」になるので、この表記の投稿ばかりが複数登場するのは不自然です。あとはやはり[笑え!]。ほぼ皆勤賞なんじゃないかしら。おそらく5公演以上は出てると思いますよ。


この事態をどう受け止めるかはかなり迷いました。…が、おそらくこんなところだろう、という仮説はあります。それは、くじを引いたのち、演出要素として表現を丸めて解釈する……という工程があったのではないか、ということです。

実際のみなさんの投稿が「誰か来る」「無関係な人の登場」「彩-LIVEが入ってくる」などの文言になっていたところを、すべて[第3者が乱入する]という形に丸めてしまう。そういう編集が入っていたのであれば、あれほどの再利用が出たのもうなずけます。

この推測がもしも正しいとすれば、「どんなに細かな表記や表現に違いがあったとしても、本質的な演出要素の括りで束ねられてしまう」ということと同義です。しかも加えてそのすぐ隣に、「どんなに似た表記であっても、カードが違えば演出要素としては使い分けられてしまう」という事態までも発生してしまいました。

例えば初日の昼公演では[秘密を告白する]と[正体を告白する]が別の扱いになっており、特に後者の[正体を告白する]で梶 裕貴さんが凄まじい展開に踏み込むんですけども、これは、“秘密”という語と“正体”という語の自由度、語義の範囲の差が顕著に出た事例と言えます*4

投稿された実際の文言を、丸めたり、丸めなかったりしているのであれば、そのあたりの編集のありかたについても、なんらかの解説があってほしい、と感じました。その解説があるとないとでは、演出くじの位置づけ自体が少々変わってしまうと考えます。

なお、「上記の予想は全部外れていて、ちゃんと投稿どおりに使ってるんじゃないの?」という疑念に関しては、これはもうほぼ疑う余地なくNOであろう、と判断しています。なぜなら、[カード2枚引き直せる]という演出カードがあったから。しかも一度だけの利用でさえありません。少なくとも2回は確認しています。

公式サイトに設置された投稿フォームをもちろん私も見ています。あのビジュアルの演出くじ欄に、こんな文言を投稿する方が複数いるとは、ちょっと思えませんね。

「演出くじ」が演出カードに丸められているとしたら

ここからはいささか確度の低い考察となります。考察といっても、作劇や舞台演出に関する話題であって、むしろ一般論に近くなると思いますけど。

さて、あらためて考えるに、そもそも“演出”というのは、舞台においてはある種の機能であって、原理的になんらかの効果をもたらすものと言えます。や、この書き方だと何を言ってんだ、って感じになりますね… つまり、“演出”は「なんらかの目的を果たすためのアイテム」である、と見ることができます。

ファイナルファンタジー』等のRPGを参考例に持ってきましょう。ゲーム内にはキャラクターがいて、彼らには体力=HPがあり、アイテムとして回復薬が設定されていますね。『ファイナルファンタジー』シリーズにおいては、ポーション・ハイポーション・エクスポーション*5…と効果が増していくアレです。この3種のアイテムは、「HPを回復する」という点においては同型で、効果の大小はあれど、カテゴリは同一と言えます。

…そう、これなんですよ。“演出”においても、このような「機能の大小はあれど、カテゴリは同一」がありうる。ありうるはずなんです。

強いて、この機能・カテゴリだけに注目を限定して“演出”を見てみれば、それは例えば「新規要素の追加」「既存要素の変化」「外界(舞台外)の情報の追加」「登場人物の関係の進行」「人物の描写」などに大分類が可能です。

逆に、ある程度機能が似通った演出を羅列してみれば、

  • ノローグを言う
  • 突然寝る
  • トイレに行く

などは「登場人物が一時的に独りになる」という点については同種の性質を持っています*6

などなどを踏まえて……。
もしも15枚の演出くじを完全にアトランダムに引き、手を加えないとすれば、表層の文言=機能の大小がどれだけ違っても、15枚がほぼすべて同カテゴリの演出になってしまう、という事態が考えられます。どころか、検証会で実際にそうなった可能性すらあります。

そして、「これは回らんぞ」と見なされれば…… まあ、そりゃあ、多少の編集、伐採・整頓はしますよねえ……みたいな。

とまあ、そんな推測をしているんですよ。どうなんでしょうね。

今回こそアンコール・ビューイングが即座に欲しかった

ここまでつらつらと振り返ってみてつくづく思いますが、とにかくZEROではアンコール・ビューイングが即座に欲しい。ひとつの公演内に持ち込まれている要素が、複層的で、かつ多いからです。特に、追加された演出カードについては、「劇中、いつ使われたか」を正確に確認する方法が、アンコールかディスクパッケージかしかありません。そして、アンコールまで時期が空いてしまうようでは、結局初見と変わらないぐらいまで忘れてしまう。

もともと私は、AD-LIVEに限らず、本公演から間をおかずに同一の公演を観ることがすごく好きです。これが非常に楽しくてですね、わりと細かいところまで覚えているうちにもう一回、しかも観客席側の反応はあらためて生で観られる、というのは、他に代えがたい唯一無二の体験なのです。

これが、現在のような「本公演からアンコールまでの期間が長い」という形では、できないんですよねえ! ほんとにもう!
……なので今回、1月18日公演のアンコールが即座に行われるのが本当に嬉しくて、そりゃもう速攻でチケットを押さえました。2回観るんですよ、2回!




だいたいこんなところでしょうか。
AD-LIVEについて、どんなことを語り、考えたとしても、すべては確認しようもなく、無意味なのかもしれません。それでも私は考えてしまうし、それを抜きにしては、会場に向かう理由も薄れてしまうような気がするので……これからもAD-LIVEと仲良くするために、その考えの物量はもはや《肥満型》*7だろ!と言われてしまうのも辞さず、考えたり書いたりしていきたいと思います。

*1:あとで掘り下げます。

*2:個人の感想ですが、2016はメリハリもあって出来がよいと感じる一方、2018は少々退屈です。

*3:今回、どうしても行けなかった1公演を除き、計7公演を確認しています。

*4:正確には、語義の範囲だけでなく、さらに加えて劇中文脈の範囲という拘束も受けます。アフタートークで梶さんが「正体として呼び出せるキャラクター」についての思案を解説してくださっているのがわかりやすいですね

*5:余談ですが、最初はここを『ドラゴンクエスト』としようと思い、「やくそう・上やくそう・特やくそう」と書くことを考えてやめました。

*6:それ以外の差はもちろんありますが、大きな機能には重なりがある、ということが主旨です。逆説的に、通常の作劇においては「ここで登場人物Aに独りになってもらいたい。ではBにはどういう演出で退場してもらおうか?」という発想になっています。

*7:モバ-LIVE引いてみた。ひどい。

『薄桜鬼』で悟った、乙女ゲームの音声に関するあれこれと、ちょっとだけ『真紅の焔』の話

なにか書きたくても、そのサムシングがなくってなあー。

というわけで、仕事の隙間時間を埋めるために、とりあえず書き始めます。あ、待ち時間が発生しているだけであって、これはサボりではないんでございますよ。


何がいいかなあ。…乙女ゲームですかね?


わりとちょいちょい乙女ゲームのエントリを起こしておいてアレですが、私個人は、乙女ゲームたるコンテンツをさほど心の「好きなもの」棚には置いていません。触れる機会はやたら作りますし、物語として面白がっていますが、ゲームすなわちインタラクティブ性を主軸にしたマルチメディアコンテンツとしては、さほど上位に食い込みません。電子式リッチ紙芝居という感覚で眺めているわけですね。好きなゲームはローグライクハクスラです。


さて、そんな乙女ゲームあれこれにおいて、私が超・強烈に「こいつぁヤベエ、乙女ゲームとはとんでもないかもしれんぞ」と思わされたのが、かの有名な『薄桜鬼』、正確にはそのPSP版です。

www.hakuoki.jp

この「PSP版です」という付言はとても重要でして、もしも私が最初に触れた『薄桜鬼』がPS2版であったなら、おそらくこの感想はなかったことでしょう。

その感想の根拠は、土方歳三(CV.三木眞一郎)ルートにあります。もう正確な場面はちょっと失念しましたが、土方がとてもとても低い、音量の小さい声で何事かをつぶやく、という場面がありました。*1

そのとき、イヤホンでプレイしていた私は、ぐっと息を詰め、耳をすます、ということをしました。そして、この行動を取らされたことそれ自体が、「あっ、とんでもないぞ?」という感想に直結しました。

恋しい相手のつぶやきに耳をすます、というアクションにおいて、主人公とプレイヤーが完全同期する、というのがこの演出の素晴らしい点なのですが、それ以前に、耳をすましてもなお聞き取れるかどうか、という音声が、作品=製品において許容されていることも無視できないポイントです。なぜそんなにマスターのボリュームが小さくてもよかったのか?

その理由は、「文字でもセリフが表現されているから」に他なりません。そのセリフを支えるのは音声だけではない、ということ。

そもそも論として、「文字と音の同期が強く保証される」コンテンツというのは意外と少数派です。アニメやドラマCDは音がメインであって文字が付随しません。音楽CDのパッケージにブックレットが同梱されていたって、同期の保証はありません。歌詞を読まずに聴くときだって多いですもの。歌詞が表示されるカラオケにしたって、自分で歌うことでようやく同期されるものです。

音声に対して文字が「ほぼ必ず」付随してくる、いえ、それさえ越えて、無音環境においては文字のみにさえなる、という、この「同期保証」の構図が何を生むか? それこそが、「聞き取れなくていい」音声の成立なのですよね!

文字の情報が読み取りや聞き取りを補助してくれるのであれば、音声はどんどんとその輪郭を失っていけます。「聞き取らせなければならない、耳で一度聞いただけでわかってもらわなければならない」という制約を取っ払えば、テンポどころか、音量も、発音さえも、もっともっと広大な幅をもってしまって構わないわけです。*2


ノベルゲームならではのこの特性を、おそらく『薄桜鬼』はよく承知していたのでしょう。
『薄桜鬼』に限らず、多くの乙女ゲームは、「BGMと効果音と音声のボリュームをそれぞれ個別に設定」「キャラクター別に音声をON/OFFする・音量を変更」など、音声周りのカスタマイズを充実させましたし、バイノーラル録音を利用した作品もいくつも生まれてきました。

しかし、こと「音声の輪郭のハンドリング」という点において、『薄桜鬼』ほど攻めている作品は結果的にあんまり出会っていません。もちろん、私個人の些少な経験においては、でありますし、いくつかは近い印象を持っている例があります。

その数少ない例のひとつが、『薄桜鬼』と同じく藤澤経清さんがプロデューサーを務めた『真紅の焔 真田忍法帳』、より正確には、そのうちの一人である真田信繁(CV.諏訪部順一)でございます!

www.otomate.jp

や、ほんとね、信繁様は、本当にすごいです。こんなに「最終的な仕上がり」についてきわめて自覚的に、しかも攻めッ攻めなディレクションで組み上がっているキャラクターには久しぶりに出会いました。ディレクター側、キャスト側、どちらがより主体を担っているかは消費者側からでは確定しようもないことですが、他のキャラクター達にその気配が強くない*3以上、担当なさった諏訪部さんのハンドリングの影響は大きいのでしょう。

……というわけで、『薄桜鬼』ともどもに『真紅の焔』を褒めるエントリでした!
もちろん仕事の隙間時間には到底書き終わらなかったですよ!

*1:こういうことをしがちな作品ですし、こういう呟きを漏らしがちな方に思えますね。

*2:もう一歩手前の例になりますが、口パクやコンテなどによって尺が規定されているアニメーションと、音声のみで進行するドラマCDとでは、キャスト側のテンポコントロールに大きな違いが生まれます。このような特性も、メディアごとの個性と言えますね。

*3:ないとまでは言いません。

【ネタバレなし!?】『ドキュメンターテイメント『AD-LIVE』のハナシ

ad-live-project.com


私にとって、ネタバレをせずに「この映画を観てくれよ!」という文章を書くのはとても難しいのですが、まあ、ねえ… 書かないのもそれはそれで、惜しい。

『映画』と聞いて(主に映画ファン以外が)イメージするものと違って、このタイプの『映画』というのは、そうそう長い期間映画館にかかるものではないですし、一期一会に似ていて、案外と願ったときには既に出会えなかったりするものだということがひとつ*1

もうひとつには、わりと大きい劇場で観たほうが、「制作側が想定する」、どころか「望む」鑑賞形態に近いであろうから、というのがその理由です。


ドキュメンターテイメント、直感的には「ドキュメント+エンターテイメント」について、本作はとてもよく「成功」しておりまして、タイトルで事前に想定された通り、2種のバランスをかなり綿密に行き来しつつ、グラデーション的に取り扱ってみせています。それはまさに『AD-LIVE』本公演さながら、『AD-LIVE』本公演を観劇する際に感じる「これが即興なの!?」「あっいま素が出た感じ!」のような、複層的かつ輻輳的な気分・思考の行ったり来たりを、確かにこの『映画』も感じさせる、という、かなり摩訶不思議な鑑賞体験になります。*2


ですが、たいへん面白いことに、この『映画』は『AD-LIVE』本公演を一度も観ていなくとも特に支障なく鑑賞できます。というのは、いくつかのパターンでその本公演のダイジェスト、あるいはミニマムなトライアルモデルが何度か、しかもていねいに開陳されているからです。それらを流れに乗って観ていくだけでも本質的なところが十分伝わるように整頓されています。

この「整頓」*3という工程が本作は実にみごとでして、パンフレットにおいて「ラブレター」と例えられたのもわかってしまうほど、全編にわたって真摯で、それでいてほんの少し独善的というか、それはちょっぴし個人的なんじゃないかしらん、という理解のされ方が垣間見えたりとかもします。

その意味ではむしろ、『AD-LIVE』どうこうは一旦さておいてしまうことさえでき、ドキュメンタリーとはなんぞ、映像とはなんぞ、映画や演劇の構築とはなんぞ、という点に興味がある方のほうが、ある種の偏愛の成立として鑑賞の甲斐があるのではないか、とすら思います。本作のカッティング、あるいは音響まわりのあれこれ、そのほかにも多数のものが、よってたかって監督の偏愛に手を貸しているであろうことが、とてもよくわかるからです。

本来ならここで、いくつかの類例、もしくは著名な過去作品を引っ張ってきてああだこうだ言いたいところなのですが、紹介した時点でネタバレに触れます。うん。この手法は使えないんだ、しょうがないね。


というわけで気を取り直して、なんとかネタバレをせずに語ってみようとするならば、スタッフクレジットと伴走する一連のシークエンスが、とくに象徴的かつ大胆ということになりましょう。

ある文字カットインを境に前半と後半に大雑把に分けられるのですが、後半のさらに最終盤には前半と後半が完全に合流してしまうつくりとなっております。さらに、その最終場面は「ドキュメンターテイメント」という名が表す体そのものであり、そのまま『AD-LIVE』とは何かそのものにも最接近する、というような、もうね、おみごとですね。

『AD-LIVE』と『ドキュメンターテイメント「AD-LIVE」』はとても共犯的な関係にあり、この共犯関係は、今後の『AD-LIVE』を強く支えてくれることでしょう。

本当に、この映画があってくれてよかったと思っています。パッケージになってほしいですね。観られなくなるのは惜しすぎますよ。


2/12の時点で、都内近郊では、
・TOHOシネマズ錦糸町
・MOVIX昭島
ぐらいしか上映館が残っておりませんで、しかも錦糸町については2/14で上映終了予定、ということで、見逃している方にとっては相当タイトです。しかも1日1回上映なんでね、なかなかお時間が合わないという方もいるでしょうけれども。

2/12時点での上映館リストも一応貼っておこうかなあ……  ざくっと調べた終了日程も込みで。

宮城県 TOHOシネマズ 仙台 2月14日(木)まで
東京 TOHOシネマズ 錦糸町 2月14日(木)まで
東京 MOVIX昭島 2月14日(木)まで?
千葉県 TOHOシネマズ 流山おおたかの森 2月14日(木)まで
埼玉県 MOVIX三郷 2月14日(木)まで
愛知県 ミッドランド・スクエアシネマ 2月14日(木)まで
愛知県 TOHOシネマズ 名古屋ベイシティ 2月14日(木)まで
石川県 金沢コロナシネマワールド 2月15日(金)まで
大阪府 大阪ステーションシティシネマ 2月14日(木)まで
兵庫県 109シネマズHAT神戸 2月14日(木)まで
徳島県 ufotable CINEMA 2月15日(金)まで


まあ、なんというか、気になった方はぜひ観てください。
私はとてもとても気に入っておりまして、「ちゃんと」観た方と語り合ってみたいです、ええ、ぜひ。


……ちゃんとネタバレしないでできているか、すっげー不安!

*1:パッケージの入手機会が薄かったり、もちろんレンタルにも出回らなかったり、配信もなかったり

*2:もうちょっと詳しく言いたいのですが、この時点でかなりネタバレすれすれです。タイトルの時点でおおよそ予想できる範囲のことについて、「その通りでした」とだけ言っているつもりなんですが。

*3:カギカッコ付きの「整頓」です。

乙女ゲームの「良い」とはなんぞやという徒然書き

ちょっと気乗りしたので、構成も練らずに書き始めてみますね。

最近はとある事情から『遥かなる時空の中で6』を駆け抜けておりまして、「大したもんだ」としみじみとなる場面をいくつも見かけ、そのたびに手を止めてはとっぷりと堪能する、というようなことをしています。

こと乙女ゲームに関する限り、自分の中での「良い」という感覚はほとんどの場合極めて明瞭で、これは良い、特にここがだな、と、かなりピンポイントで指定可能です。不思議なことですが、「良い」というエッジ-輪郭-のようなもの、あるいは想起される感情の起伏の屈折点、自分のうちに発生させられる*1想いの発火剤を絞り込んで示すことができます。

攻略途中の現時点では、という但し書きは絶対に必要なものの、特に見事すぎるほど見事だったのが萩尾九段であり、エピソードの佇まい、人物像の描き出し方においては頭一つ抜けているのではないか*2、というのが現時点でのもっぱらの感想です。特に、以下ネタバレにつき反転軍邸においてドレス姿に着替えた高塚梓を目撃したとたんに動悸を訴え、村雨を引き合いに出してまで自らの言葉の至らなさ(ただしそれが率直さそのもの)を吐露し、「出直してくる」と1時間中座し(着替えずに1時間待つ梓も梓だ)、以前梓に美しいと褒められた千代紙の花束を携えて駆け戻ってくる】という場面は、九段という人物の人柄、それに対する梓の応じ方、過去のエピソードの再利用が結実しておりまして、出色の出来栄えです。特に、場面内に明示された時間的な余白に対する認識が梓とプレイヤーで完全に一致しており、その余白の間に九段がどのような行動を取っていたのかをありありと想像してしまう、梓も、そして私たちも!というシンクロもまた素晴らしい。

さらに重ねて、周回プレイを前提とする本作において、特に大物語のキーになるイベントに付随するエピソードだというのもまたポイントで、他の攻略対象と捌き方が大きく異なる、という点でも、印象的な場面となっています。個別のエピソードもいいが、共通イベントまわりでの差別化もいいよネ!


もちろん、制作陣の制作上のリソース、あるいは情熱、あるいは誠実さは建前上、そして実際も、攻略対象みなにそれなりに等しく注がれているものでしょうから、ことさらに彼が相対的な意味で情熱的に立ち上げられたわけではないのでしょう。九段を例にあげたものの、他の登場人物たちに見せ場がないかというと全然そんなことはないわけです。なんなら『遥か6』は相当コンセプチュアルな人物「分担」を見事成し遂げていて、割り振りが非常によく仕上げられているような印象さえあります。ていねいな作りだなあ、と思いながら触れてますよ。選択肢のハンドリングも非常に適切ですもんね。感情線として無理がなく、それでいて登場人物のリアクションへの深堀り要請も満たしている、お手本のような選択肢ばかりです。


いやしかしですね、いくつかの乙女ゲームには「キラー」というような登場人物がいてしまうじゃないですか。『ニル・アドミラリの天秤』における尾崎隼人はやはりかなりいろんなものが突っ込まれていますし、『Wand of Fortune II』のアルバロ・ガレイはほとんどびっくり箱状態、というか、彼はシステム的にも特例をもらっているので、「キラー」でないとおかしいとも言えます。

もちろん、設定上、シナリオ上、システム上の「特別」とはまったく別の理路で、ただ出来の良さの一点で「キラー」化してしまう登場人物もいて、かの『薄桜鬼』における斎藤一沖田総司はただただ「キラー」なんだと思いますよね。なんだありゃ。や、あれは「キラー」ですよ、わかるけども!


そう、出来の良さとは、意図して設計された構造だけではなくて、なんらかの「熱」、うまくいっている何か、多くの歯車のかみ合い方にもよるのだと思います。これは私がそう推測しているのですが、ちゃんと見つめるとですね、乙女ゲームにおける「人気投票」というのはかなり正確に順位の予想ができるように思ったりとか。乙女ゲームにおいてはマジであてになると思うんですよ、人気投票。「出来の良さ」という点で。自分の趣味・好みとは一致しなくても、出来の良さの指標としてね。


その点で、今もっとも人気投票の結果が見てみたいのが『真紅の焔 真田忍法帳』です*3。あの作品、人物ごとの力のバランスが何だかおっかしいんで、それがきっと露骨に出ちゃうと思うんだよね。すっごく気になる。誰がどれぐらいぶっ放すのかが。や、何をどうやったって『真紅の焔』が今さら人気投票をやるわけがないのですが、あれですよ、乙女ゲームの「良い」を考える一例として、実に象徴的な一作でした。しばらく大切にすると思います、『真紅の焔』。


なんだか意外なところに着地しましたが、ちょっとした手慰みとしては楽しい文章でした。では、引き続き『遥か6』攻略、粛々と進行したいと思います。

*1:「させられる」であって、「する」ではありません。

*2:もちろん個人的な感想にすぎません。

*3:『CharadeManiacs』はやっていただいたので、たいへんありがとう。大笑いしました。

たまには手慰みみたいな文章を書いてもいいじゃないの

「誰かに読まれる」ことに比重を置かず、「自分が書き読む」ために書くってこともたまにはあっていいわけだと思うのです。

まあもちろんこの時期ですから、AD-LIVE2018のライブビューイングに日々向かっては笑ったり涙したり、出演者の、そして舞台裏の皆様の技に瞠目したり、そんなことをしていますが、それはそれとして、日々、worksとjobsがあり、taskがあり、communicationがあったりしています。

近頃は、その多くで「引き受けている」感覚が強く、実はそのいくらかは錯覚であるわけなんですけども、事実として、依頼するよりはされる側感があります。我々は日々、誰かにたのまれごとをしなから過ごしていますね。

「たのまれごと」はさまざまな形でやってきて、有形の対価があるもの、ないもの、内面から湧き上がるもの──この内面とは生物的本能であったり、理性や倫理観による自律自制であったり、時に感情だったりする──ような感じです。

同時に、多くは外的規範の形をとる「たのまれごと=よき姿であれという漠然とした外圧」を、かなりのレベルで無視をし続けざるを得ません。


食事や睡眠、健康、金銭感覚、家族や友人との人間関係、公共での、あるいは界隈でのマナーやモラル、日用品や家電等の取り扱い、どんな場面やどんな対象を取り上げても、あらゆる事物に「よい◯◯」は必ず付随していて、そのすべてをもれなく愚直に守り続けては到底いられないわけじゃないですか。

自分が所有しているもののすべてを適切にメンテナンスしてますか?
エアコンは? シンクのパイプは?
シャツの漂白やクリーニング、靴の脱臭?
睡眠は8時間、野菜は1日300g、適度な運動に瞑想をし、
よき子であり、よき家族であり、
よき夫で、よき妻であり、
モンスターペアレントにもクレーマーにもならず、
仕事では有能で、向上心を忘れずに技術を磨き、
政治に対して一定の見識を持ち、投票権があるなら選挙には行き、
もちろん適当に票を投じることもせず、
ブラック企業を憎み、困っている隣人を助け、
清潔感を大切にしながらファッションをエンジョイし、
エンタメを楽しみ、偏見を持たず、
平易なポリティカルコレクトネスに準じ、
他者を罵倒せず、嘘には騙されず、
持続可能な社会のためにできることをし、
ゴミを分別し、リサイクルに努め、


このままいくらでも続けられるんですが、まあ、キリがないので。

やっていけてることもあるけれど、取りこぼしているものもあって、でも、これらをまるですべて実践しているかのように見える方が世の中にはあふれているわけで、それはまあ、漠然としたコンプレックスも抱きますよね。やってられっかー。自分が網羅的でない雑さを有していると、どうしたって自分がいちばんよく知っている。


一方で、社会的動物の根源的欲求として、私は「世界をよくしたい」みたいな漠然としたことも思っていて、その結果として、非常に多くの場面で外面よく振る舞います。仕事場でも、どこかの店でも、接する人には基本的に穏当に、にこやかに、機嫌よくありたいですし、仮になんらかの怒りや苦情を申し立てる場合であっても、内容に対してちょうどいい規模の感情でもって振る舞いたいと思います(100%ではないまでも、ほとんどの場合で成功します)。
ちょっと関わりがあった人が気持ち良い人柄だったこと、仕事でふとすれ違った人がにこやかだったこと、小さいことでもちゃんと受け止めてくれたこと、そういう些細なことが人生のあたたかさを増すのをよく知っているので、それを極力生産する側に立つことで、何かをよくする、よくしたい。


「よき◯◯」への抑圧、そこへの諦念と、世界に対して善良さを保持する努力は、かなりの程度で相反するというか、「聖人君子じゃいられない/でもまあ良き自分でありたい」のバランスであって、無理ムリ、これは無理、と雑に投げ出しながらも、自分が接するあれこれには、まあ、できる範囲でていねいに当たっていくわけですね。


この「ていねいに当たっていく」ことにも実はそろそろうんざりしてもいるんですけど、それでも友人から見た私はどうやら精神の安定している常識的な人物に見えるらしく(私のどうしようもなさ、抜かりのあれこれを知っている方もいるわけですよ、もちろん)、それは別に間違っているわけではない、というかそう見えるように振舞っているのですから一種の成功の類ですらありますが、いや何って、それは努力の成果物でもあるのです。当たり前のようにやってるわけじゃねえぞ。
いや、当たり前なんだけれども、今の自分のありざま*1は断じてノーコストではない。こんな自然体があってたまるか。


わたしはノーコストではないんだぞ、とあえて明言するにともなって、「あなた」だってノーコストではないはずだ、と、私は考えます。


「あなた」もだいたいにおいてこうあるはずでしょう。力の分配や重視するポイント、そのために犠牲にする分野はそれぞれに違うだろうけれども、ひとは「常に漠然と『よさ』に向かい続ける」構造になっているわけで──向かったことによって遡及的に「よさ」が決定されるせいはあるにせよ──そりゃ、誰だって、「あなた」だって、日々、コストを支払って『よく』しているに違いない。

みんなそうなんだよねー。多かれ、少なかれ、さあ。

そんなことを喫茶店で書いていたら、「Wouldn't It Be Nice」*2が流れ始めた。歌詞を見ずともなんとなく口ずさめる英語楽曲のひとつ。

イッツオーケー。おたがい、やっていきましょうね。

もしも、かけらも「自然」じゃない振る舞いが私をヒトからニンゲンにするのだとしたら、ニンゲン上等、ヒトになるのは眠っている時だけで十分です。

*1:造語です。ニュアンスを感じてほしい。

*2:邦訳タイトルの「素敵じゃないか」も好き。