AD-LIVE2016 BELLSON社の社員証について
AD-LIVE2016のライブビューイングで行われていた、「半券プレゼント企画」。
本当にありがたいことに、C賞の「BELLSON社 社員証」に当選したようで、現物が届きましたので、写真をちょいちょい掲載しようと思います。……特に「非公開にせよ」的なご注意はなかったので大丈夫だと思うんですけど。もしコメント欄等々でお叱りをうけるようなことがあればすぐ削除対応をしようと思っていますよ。
では、改めまして。
こちらが現物(名前部分は画像をいじって隠しました)。
カードだけ届くかと思っていたら、ストラップごとお送りくださいました。赤いネックストラップなので、責任者系(おそらくAniplex社員)の方が着用なさっていたものと思われます。もちろん、カーテンコールでの鈴村健一さん、公演中の浅沼晋太郎さんが身につけていたものではありません。*1
なお、裏面は真っ白。
……会場でちらっと見えちゃった記憶ですと、公演当日、裏側にはスケジュールとか、無線コード表とかのメモを入れた方がおられました。
カードだけを取り出すとこんな感じです。
実物は、交通系電子マネーカードや、クレジットカードのようなプラスチックカードです。
左上に入っているのは「マインドダイブ」のロゴです。パンフレットにも記載されています。
左下の数字「19820401」は、ベルソン社の創立日、1982年4月1日を数字8桁にしたものでしょう。この情報もパンフレットどおり。
左側の後ろに入っているネットワーク図は、パンフレット表紙のアレンジかと思いきや、ノードの配置が一致するところを見つけられず……もしかしたら、社員証のために作ったのかもしれないですね。
名前横の金のアイコンは、ICチップを意識したデザインかなと推測しています。デザインの基はいまのところ見当がつけられていません。
また、その下のバーコードはウソバーコードのようです。読み取りを試しましたが反応しませんでした*2。
なお、記載されていた名前についてです。
名前はローマ字で綴られており、私のところに届いたものではイングランド系の名前に近いお名前が書かれていました。しかも、とても有名な劇作家の名前にかなり似ています。このあたり、「へえ」と思いました。ただし、まったく同じ綴りではなく、綴りが一文字異なっていました。オマージュのつもりでタイプミスしたのか、本当は劇作家ではなく何か別の由来があるのかは不明です。
それはそうと、なぜ、画像をいじってまで名前を隠したかというと…… 掲載されていた綴りそのままズバリで完全検索すると、あまり大っぴらに語るものでもなさそうなページにたどり着いたからです。したがって、あんまりその綴りは公開すべきではないかな、と。もうこれ以上は言いません!
はい、そんな感じでした。
楽しすぎた3か月どころか、たいへんありがたい、貴重な記念品をいただき、AD-LIVEには本当に頭が上がりません。映像パッケージもきっちり予約しましたので、今から発売が楽しみです。アドリブクエスチョンを全力で送っていますので、もしかしたら使われるかも、という楽しみもあったりします。
どこまでもいつまでも楽しみがつきないAD-LIVE、本当に大好きです。
マラソンするアプリゲームと、運の荒波、ちょっとだけAD-LIVEの話
ガチャ一回で最高レアである☆4を一点引きしてしまったので、ボーイフレンド(仮)きらめきノート(リンク先・音注意)でマラソンしてみております。でもたぶんこれ無理なやつです。
スマートフォンゲームではもはや恒例となった「期間中のプレイ成績」によるランキングイベントは、"報われ"の構造が明確であり、極めてジャパンな感じがいたしますね*1。
しかし、アプリゲームにはもうひとつ、大きなマラソンがありますよね。リセットマラソン、通称リセマラが。
こちらは、運(ゲーマー的にはリアルラック)を試行回数で突破するという趣旨のもので、いつ終わるかもわからないところが苦しいところです。性能だけを突き詰めればいいとも限らず、俗に「終了候補」と言われるものの中でも、特に一部、場合によっては一点を狙う場合には、ことによると1000分の1以下を10連+1で狙う場合もあり*2、なかなかシビアです。
1Fの操作、256分の1を常にくり返すようなTAS(Tool-Assisted Superplay)領域のなにかを、単純な試行回数で突破するリセットマラソンは、すなわち、人力やり込みにおいてはゲーム内タイムアタック、通称TAの時に行われるプレイでもあります。
そう考えると、リセットマラソンが一部プレイヤーに積極的に実施されているこの状況は、スマホゲームプレイヤー総やり込み人化現象ともいえるような気がします。
一方で、ランダム事象のカタルシスは、ボタンを押すと餌が出てくる機械を用いた動物実験でも示されているところで、僕らは常に偶然なる事象に振りまわされているのかもしれません。
かといって、ここでいう運は、実は結果ではなかったりします。運はどちらかというと、どのように扱うべきかを試される何かです。
運の荒波を乗り越えることがゲーム性に寄与する、というのは、多くのゲームで見られる構造です。小規模なところでは、「ぷよぷよ」「テトリス」に代表される落ちもの系ゲームの「NEXT」がそれですし、より大きな流れの中で言えば、「風来のシレン」など、不思議のダンジョン系もまた、運の波をいかに乗りこなすか、ということがゲーム性の主たる部分です。
話が逸れますが、SFC版「風来のシレン」の初期ダンジョンであるテーブルマウンテンは、慣れた風来人(プレイヤーのこと)であれば、ほぼ100%攻略することができます。めちゃくちゃな大事故があると頓死することがありますが、その可能性は相当なレベルまで減ります*3。
何が言いたいかというと、「運を乗りこなし、時にねじふせることは楽しいことだ」と言いたい。
ちょっとだけAD-LIVEの話に持っていきますが、あれもまた、アドリブワードという偶然をどう扱うか、という楽しさがあるように思えます。アドリブワード自体は一定の傾向を持たされていますし、何より「任意のタイミングで引ける」ということでもあるので、コンピュータゲームにあるランダムとはまたちょっと解釈を変えるべきでしょうが、「くせになる」楽しさがあるのは間違いないと思いますよ。
なんとなく論が発散してしまったので、この辺でいったん閉じ、きらめきノートをプレイしてこようと思います。判定がかなりシビアで苦しんでいます。スタミナ食いすぎで上位難易度練習できないってばさ!
岡本信彦『Happiece』回収騒ぎについて思うこと-株式会社ランティスについての雑感
ああ、AD-LIVE大阪公演の直前にこんなニュースを目にしてしまうこと自体がとてもつらい……
岡本信彦1stフルアルバム『Happiece』収録内容不備のお知らせとお詫び | News | Lantis web site
岡本信彦さん「Happiece」収録「僕らのカタストロフィ」につきまして | News | Lantis web site
平成28年10月26日に発売いたしました岡本信彦さんの1st Full Album「Happiece」に収録されている「僕らのカタストロフィ」が、すでに発表されています鈴村健一さんの楽曲「ひとつ」と同作曲家による同楽曲であるということが発覚いたしました。
経緯につきましては、すでに楽曲が存在しているにも関わらず、CD化がされていなかったことが理由で弊社が正式な楽曲登録を行わなかったため、未発表楽曲という扱いで岡本信彦さんのアルバム制作課程*1の中で同楽曲が提案され収録されたという状況です。
メーカーである弊社の楽曲登録の不備、管理不行き届きにより、このような事態を起こしました事に関して、鈴村健一さん、岡本信彦さんはじめ、作品を楽しみにお待ちいただいておりましたファンの皆様及び関係者の皆様に多大なご迷惑をお掛けする事態となりましたことを深くお詫び申し上げます。
経緯については引用部でそれなりに説明されていると思うので、これ以上を語る必要はないと思います。
(追記)そもそも、楽曲「ひとつ」の権利関係がどのような構造になっているかも不明*2で、楽曲の再使用が権利的な意味で妥当だったのかどうか、判断できる材料はないと考えます。また、作曲(「僕らのカタストロフィ」においては作詞も担当)の倉内達矢さんが、当該楽曲に対してどのような認識だったかも定かではありません。
(さらに追記)Twitterでいくつかの誤解を見かけたので追記しておきます。
ここで話題に上がっている楽曲「ひとつ」は、アニメ『ヒカルの碁』のキャラクターソングである「ひとつ」(伊角慎一郎(CV.鈴村健一)、作詞:藤林聖子、作曲:住吉中)とは異なる楽曲です。以下、こちらを指す場合は【伊角名義】とします。
鈴村健一名義の「ひとつ」は、〈Live Tour 2014 VESSEL〉2014/09/20 香川・高松オリーブホール公演で初披露され、ツアー全9公演、〈満天LIVE 2015 luna〉および〈sol〉、〈満天LIVE2016〉の2DAYSで披露されたものです。2014年ツアーのDVD/Blu-ray、満天LIVE2015のDVD/Blu-rayにのみ収録されています。CD音源化はされておらず、また、「Original Entertainment Paradise(通称:おれパラ)」等の対バン・フェス系のライブでも歌われたことはありません。ソロライブでのみ(しかも現時点ではソロライブでは例外なく)歌唱されてきました。作詞を担当したのは鈴村健一本人であることが、ツアー中のMCその他で語られています。
(以上追記終了)
ここで触れておきたいのは、株式会社ランティスが自社の所属アーティスト「鈴村健一」に対して、特に2014年近辺に何を起こしてきたか、という話です。
2014年、3rdフルアルバム『VESSEL』発売時、こんなことがありました。
鈴村健一「VESSEL」商品封入のライブ先行チラシにつきまして | News | Lantis web site (リンク先本文削除済み?)
鈴村健一「VESSEL」商品封入ライブ先行チラシ当落結果、入金期間変更のお知らせ | News | Lantis web site
封入された先行申し込み用のチラシの一部に、シリアル番号が印字されないものがあったとのこと。
そして、その『VESSEL』ツアーのDVD/Blu-rayでは……
4月15日発売 鈴村健一「Live Tour2014 VESSEL」BD/DVD INDEX表記誤植のお知らせとお詫び | News | Lantis web site
鈴村健一「Live Tour2014 VESSEL」BD/DVDの商品に関しまして、
バックジャケットのINDEXに不備があることが判明いたしました。
そしてそして、まさにそのVESSELツアーで初めて使用された「ひとつ」に関する楽曲管理ミス……。
さすがに3件も重なってくると、2014年近辺での鈴村健一さんに対する扱いがよっぽどずさんだった印象がぬぐえません。
「手を抜くな!」とか、「アーティストをバカにしてる!」とか、そういう批判めいた話にはすべきではないと思いますし、私自身、したくもありません。どんな人も、どんな組織も、やらかしてしまう時はあるものだという立場に私は立ちたいです……たとえそれが良くないこと、組織として本来ありえない大ミスであったとしてもです。
一方で、このようなミスが3件も*3重なるというのは、〈スタッフが相互に仕事をチェックしフォローし合うという体制がランティスという会社には存在しない〉という、ひとつの証拠のように私には思えてなりません。
こうして過去のミスがきわめて手痛い形で発覚した以上、2014年当時の、必要であればそれ以前までさかのぼり、次なるミスがないよう、然るべき検証と対処を行ってほしい、と、切に願います。
コミックマーケット、C90が無事終了という話、そしてC91へ続く、続き続ける
一部の私たちは時々忘れそうになるけれど、コミックマーケットとは二次創作の場ではないのだった。
コミックマーケットの理念
コミックマーケットは同人誌を中心として
すべての表現者を受け入れ、継続することを目的とした
表現の可能性を拡げる為の「場」である -コミケットマニュアルより引用-
今回、3日目に東4ホールで頒布されていた「量子コンピュータ手習い」に出会い、サイモン・シン『暗号解読』を再読していたというタイムリーさもあって、購入させていただいたのだけれど、この本はどう考えても二次創作ではない。
LaTeXで書かれたのだろうか、という組版のそれをぺらぺらとめくりながら、まだ内容を読み下すところまでは辿り着いておらず、ただ、通読までの時間をたっぷりと取っていいのだという、所有の贅沢さを堪能している。"入手"の意味は、ある意味ではタイムシフトにある。
閑話休題、コミックマーケットはついにその開催90回を数え――コミケットスペシャルを加えればもう数回ほど回数は多いが――、つまり、順当にいけばあと5年後、2021年の夏にC100を迎える。
そして、その「順当にいけば」というところに、コミックマーケット準備会は挑み続けている。上述の「コミケットマニュアル」には、「場の継続に向けた意志」という項が独立で設けられており、彼らにとって、"継続"はそれほどまでに重い、最上位のものであるのだ。
コミケ終了直後には、はてなブックマークにもコミケ関連の記事がよく上がってくる。コスプレ、企業ブースは言うに及ばず、話題のサークル、スタッフの名言、トラブルの数々。かつてはローアングラー、今回はダミーサークルと徹夜組。
多くの人がそれぞれにそれぞれの立場で希望を述べていて、そのそれぞれに、私としても思うところがあるのだけれども、それに対処しなければならないコミックマーケット準備会は、まずは場の継続を最優先にし、コミックマーケットが中止になりうるリスクを絶対に取らない。
きっと、中止にするぐらいなら、縮小してでも開催するのだろう。
だから安心していい、というのも変だけれども、「次回のコミックマーケットは~」という文言は、コミックマーケットの理念に直結していて、だから、「コミケがなくなるかも」という想いを抱くときがくるならば、それは安易なものには決してなりえないだろう。
かつて、コミックマーケットはその代表を二度交代している。特に二度目の代表交代については、故・松智洋氏による『代表交代について・代表が代わった日』に詳しい。米沢代表――ここではもう米やんと書いてしまうけれど、つまるところ、コミックマーケットは米やんとともに滅ぶことを断固として拒否し、準備会を共同代表に委ねることで、自らの寿命を延ばした。
組織には生物学的な意味での寿命はない。組織は――「場」は、担い手がいなくなった時にこそ滅ぶ。
私は、コミックマーケットがずっと継続することを願っている。もちろん、表現の場として。
だから、自分がまだここにあるうちはその担い手でありたいし、自分の手からそれがこぼれ落ちていく時には、誰かに託せるようでありたいとも思う。
組織のタイムシフトだ。
そんなわけで、C90、おつかれさまでした。年末のC91に向けて、またしても続くとしましょうか。
【作品ネタバレなし】4DX・MX4D両方で『シン・ゴジラ』を観たのでレビュー
話題の『シン・ゴジラ』を4DX・MX4Dの両方で鑑賞したので、今から『シン・ゴジラ』を観たい、でもどれで観よう、と考えている方向けに、ほぼ作品のネタバレなしでレビューをする。
性質上、「どんな演出効果が使用されたか」には触れざるを得ないので、そこだけはごめんなさい。話の流れにはふれないようにしますので。
忙しい人向けの三行まとめはこのとおり。
また、これはあくまで『シン・ゴジラ』の鑑賞に限った話なので、別の映画であれば違う判断になるだろうことも合わせてご了承ください。
では、以下からそれぞれについて雑感。なお、私はメガネ着用・酔いについては強くもなく弱くもなく、というところ。
演出もりもりの4DX、アトラクションとして楽しみたい人向け
4DXは、ユナイテッド・シネマとしまえんにて鑑賞。上映前の予告編や、解説ムービーで4DXってどんなものかを体験させてもらえる。体験させてくれたのは『キング・オブ・エジプト』だった。
コロナワールドの解説によると、4DXが使う演出効果は、モーション・風・ミスト・香り・バブル・煙り・エアー・フラッシュ・雨・雪・嵐。
このうち、『シン・ゴジラ』鑑賞において特徴的だと感じたのは、風、エアー、煙り、雨の4つ*1。
風とエアーにどういう違いがあるかと言うと、前者はふわりとした感触の表現に、後者は左右の区別をつけた風圧を体感するものとして使い分けられていた。特に、エアーによってもたらされる、顔の右、左それぞれに強い風が吹き抜ける感覚は、4DXオンリーのものと言える。ただし、体感的な演出としてはかなり強い感触があるので、それを臨場感があるものとして捉えられるか、驚いてしまってかえって集中できないと感じるかは人によって分かれそうだ。
また、煙りについては、白煙・黒煙の使い分けがあり、なかなかインパクトのある演出になっていた。とはいえ難点もあって、煙りなので完璧なコントロールはありえず、スクリーンにもばっちりかかってしまうのが気になるところ。なので、隅々まで映像を目に焼き付けたい、という要望とは相反するのは間違いなく、そうでなくても気が散る、という意見もあると思われる。割り切れれば面白みはあるはず(私は好き)。
また、これも4DXのみの演出である雨は、とても小さい粒が数粒、ぱらぱらっと身体に感じる程度だったので、服が濡れる心配をする必要はない。むしろ、半袖の人が多い今の季節のほうが向いている演出効果かと。分厚い服を着てると感じにくいかもしれないぐらい。
全体としては、演出もよく使い分けられていて、アトラクション感がしっかり体験できて楽しかった。が、気が散りやすい人にとっては演出過剰と感じられるかもしれず、そのあたりは個々人の集中力というか、没入しやすさにも影響されるかと。また、当然ながら座席が動くので、テロップ読み取りとの相性は良くはない。「じっくり眺めたい/アトラクション体験をしたい」は両立しないのでそのつもりで。
振動系の細かさが売りのMX4D、得意なところははっきりしている
MX4Dは、TOHOシネマズ 新宿にて鑑賞。こちらも本編上映前に体験させてくれた。題材は同じ『キング・オブ・エジプト』。図らずもこちらの予告でも比較ができ、私としてはありがたい限り。
同じくTOHOシネマズの解説によると、MX4Dの演出効果には、振動系として、ネックティクラー(首)、バックポーカー(背後)、レッグティクラー(足元)、ランブラー(地響き)、シートポッパー(突き上げ)があり、その他演出として、ウインド、エアーブラスト(噴射)、ウォーターブラスト、フォグ(霧)、ストロボがある。
この一覧にも表れているように、MX4Dのポイントは振動系演出の部位の細かさで、『シン・ゴジラ』でもそれは明らかだった。バックポーカーでは背中をドンと押されるような振動が、レッグティクラーでは、足元に小石が跳ねてそれがふくらはぎをかすめる時のような振動が与えられ、まさに全身で体感することが可能。……だが、個人的にはレッグティクラーはややくすぐったくも感じたので、もしかすると、ハーフパンツ着用などだと、けっこうぞわりと来るかもしれない。
実際に『シン・ゴジラ』においても、振動の演出は巧みに使い分けられており、これだけ使い分けてくれるのか!とわくわくできた場面がいくつもあった。特に戦闘シーンで、兵器が切り替わるたびに振動の質がぐいぐいと変わっていく感覚があり、これはMX4Dならではのものかと。また、バックポーカーがひときわ強い効果を上げている場面があり、まさにその場にいる感覚を味わわせてくれた。
一方、水と風系の効果の主軸となっていたウォーターブラストとエアーブラストはけっこう強烈で、「ブシューッ!」と急に吹き付けられると反射的に目を閉じてしまう。そのせいで一瞬画面から目をそらしてしまう結果に。また、なんといってもメガネが濡れる。それも、けっこうそれなりに濡れるので、私は時々ハンカチで拭った。劇場内でもメガネを拭う人の姿はそこそこ見られたので、メガネ必須の人にとっては、ややつらいのではと思う。
4DXと比較すると、演出がついている場面・ついていない場面の区別がはっきりしており、かなり自然な効果がついているおかげもあって、演出効果が良い意味で目立たない。そのぶんアトラクション感は薄めで、代わりに没入はしやすいのでは。
補足:酔いやすい人向けに
4DX、MX4Dとも、私は酔わなかった。また、どちらにも同行してくれた友人(車ではあまり酔わない、酔いにはやや強い)も、酔わなかった、と言っていた。なので、酔いの強さはごく普通程度、というなら心配する必要はないと思う。
もしも酔いやすい自覚があるなら、横4つ組になっている座席の真ん中の2席を選ぶことで、多少は揺れが軽減できる可能性があるかもしれない(船では端より中心のほうが揺れが少ない理屈)。
まとめとその他
以上、雑感でした。どちらにも長所があり、それぞれ楽しめるものの、私自身がメガネ着用ということもあり、「『シン・ゴジラ』については4DXやや優勢」がこの記事としての結論です。ただし、MX4Dについても、別の作品であれば迷わずMX4Dを選ぶだろうと思わせるだけの魅力があり、興味がある人にはどちらも体験していただきたいですね!
そして、繰り返しになりますが、どちらもアトラクションとしての動きがあるので、テロップの読み取り等には向かない。じっくり眺めたいならやはり別のスタイルで観るべきでしょう。私も後日IMAXでもう一回観るよ!
また、ネタバレありの4DX・MX4Dの比較記事もありましたので、ご紹介を。
d.hatena.ne.jp
というわけでした。お読みいただきありがとうございました。
*1:もちろん他の演出効果も使われています。
探してます、数学の言葉づかいを教えてくれる本
数学に関する話題がホットだったので、普段思っていることを、20分ぐらいを目標に書く。
かつて、学校で「図は言語である」ということを叩きこまれた身としては、数式が言語なのはもう当然であり、とにかく誤読がありえないという意味では、数式以上の世界共通言語はそうそうなかろうと思われる。解釈のぶれがあるようなものは数式ではないのだ*1。
ので、その読解方法さえ学んでしまえば、誰でも――どこの誰でも読めるという意味で、「数式アレルギー」というのはなかなか雑な物言いではあると思う。「生理的に無理」という無敵の言い訳と大して変わらないからね。
ところで、「数学の言葉づかい」というやつがあるじゃないですか、ねえ。文章題の文体のことではなく、「~とおく」「を求める」など、そういう類の。
例えば、問題を解く最中に、こんなことを思う。
x^2をtとおく。0≦x≦2のときのtの範囲を求める。
……「求める」でいいのだろうか? 「調べる」? 「確認する」? 「のとき、tの範囲は~」と一続きにしたほうがよいのか?
このあたりの妥当な言葉づかいを整理してくれる書籍というのはないのだろうか、というのがここ最近のぼんやりした悩みである。「同様に確からしい」などの数学方言とはまた別種のものなんじゃないかという気がして、なかなか攻めあぐねているところだ。(以上20分)
「独身の人って生きがい何なの?」の文章が凄い
この文章を読んで私が感じたことは、文章の巧さだった。けだし名文。巧みすぎて、釣りくささすら感じた*1し、これが釣り(=フィクションないしは表現に重きを置いた創作の文章)だとしたなら、書き手はたいへんに優れた感性の持ち主だと思う。作家としてもやっていけるんじゃないかとすら思えるくらい。
それくらい、この文章は内容と印象が乖離している*2。
以下はすべてno offenseで、文章の構造や単語選びについてだけ話す。
まず前提として、文章においては"文章の意味"と"表現の選択が伝える雰囲気・印象"はまったくの別物である。ここが了解されないとけっこうめんどくさいことになるので、クドクドとくり返すけれど、「伝える内容と、伝わる印象は別である」。
内容に関して、あの文章に悪意はない。まったくない。むしろ無邪気で、素朴だと思う。誤解の余地がない程度にはじゅうぶん整理できているように思えるし、変な解釈のまぎれも起こさないはずだ。
ただし、伝わる印象は悪い。びっくりするほど悪い。表現のチョイスが軒並み印象を悪くする方向に作用している。
ここからは引用しつつ。まずは最初のブロックから。
で、思ったんだけど例えば30.40で独身の人って生きがいなんなの?仕事とか趣味?
- タメ口風の遠慮のない質問の仕方をしている
- 「30.40で独身」という、場合によっては一種の社会的弱者と見なされる属性を引き合いに出す
- 「こういう属性の人って生きがいなさそう」と思っているように読める
- 「仕事・趣味」を例示することによって、「自分は仕事も趣味も生きがいではない」ことを暗に示している
- もしかしたら、仕事もしてなければ趣味もないかもしれないと思わせる
- 「仕事・趣味」に「?」をつけることによって、「仕事や趣味が生きがいである」ことに疑義を挟む
……こうやって分解してみて、改めてそのスタイリッシュさに惚れ惚れしてしまう(no offense)。
次は追記から。
私の場合は、趣味も知的好奇心も友達も親も彼氏も社会的な成功も、生きることがそれなりに楽しい理由にはなったけど、絶対的な生きる理由にはならなかった。
- 「趣味をまっとうできた・知的好奇心を満たせた・友達がいた・良い親がいた・恋人がいた・社会的に成功した」ことを一気に宣言している
- もちろん苦労もあったのだろうけど、上記6種を「総合的に良いものと捉えている」程度には問題が少なかったことがうかがえる
おっちょっとこれは辛いなって心が折れそうになるときもある
- 「ちょっとこれは辛い」と「心が折れそう」を連結することで、結果的に「心が折れる」ことを軽く扱っている
- 実際にべきべきに心がへし折れた経験がないと思わせる
ゼロな自分がもし明日不慮の事故で死んでもそれは別にもったいなくはない
- 上記と関連して。自分を「ゼロ」と表現することによって、「趣味~社会的な成功」を得ていない人を「マイナス」まで暗黙におとしめている
さらに追・追記から。追・追記はさらに口語的なスタイルでまとめられていて、ほんとうに見事。
私は、あくまでも私の個人的な見解だから怒らないで聞いてね、
- 「個人的な見解だから」「怒らないで」という、論理的には筋のない連結によって甘えを感じさせる
- 「聞いて」という、文章に対しては通常もちいない表現
- 「ね」という語尾に甘えを含んだお願いのニュアンスがある
- ネットの向こうの顔も知らない読み手に対しての甘えは、「誰に対してもいつもこうなのだろう」と思わせる
ここのフレーズには舌を巻いた。「なーにが『怒らないで』だ(笑)」ぐらいの感覚になってしまった。このフレーズに敗北したので、こんな記事を書いてる。
私的には一人で生きていくのって結構大変で、だから独身の人って結構辛いんじゃないかなって想像するんだけど、
- 「想像する」という表現から、隣人が自分と同じ感性であることしか想像していないことになる
- つまり、感性が異なる人間がいることをそもそも想定していない表現になっている
- 例えば「独身の人は辛いんじゃないかなとつい思ってしまうんだけど」なら少しは緩む(少ししか緩まない)
- つまり、感性が異なる人間がいることをそもそも想定していない表現になっている
また、単語のバックグラウンドというか、単語自体の雰囲気もすごく効果的に用いている。代表的なのは「ママ」「BBQ」「タワマン」「カンファレンス」*3。
本当に、言葉の力というのはすごいものだ。面白かった。なお、私の生きがいは文章を読むことです。