()内は可変
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感情とその発露、行動へのギャップ~「プロ」と「アマチュア」

まだ喉がダメです。


今日は匿名ダイアリーにあがってたこれ。

こんな愚痴をコナンで吐くことになるとは思わなかった。

ブコメでは、

嘆いたり願ったりするならぜひ布教活動に精を出してほしい。その愛情をもってして、ポジティブな行動につなげてほしい。(一部抜粋)

としたんだけれども、まあ、これはもうちょっと書き下しようがある気がしたので。


作品への偏愛*1というのは、オタクが"オタク"を自称する際の心情的根拠というか、例えば「偏愛がない奴ぁオタクじゃねえ!」的な妙な自尊心とセットであったり、そういうものと連関するものだと思っている。

ので、それが感じられない*2自称オタクに対して、むやみに感情が刺激されることがままある。例えば「原作コミックスも買わずに二次創作をするのは邪道」のように、金銭面での公式への貢献をほとんど条件のように語ってしまうのがその一例だろう。

つまるところ、深みを知る者はある種のプロフェッショナルとなり、プロらしいプライドでもってそこに向き合っているようなものだと思う。


一方で、特定ジャンルのファンコロニーは、常に新規流入のハードルの高さに敏感になっていたりする。「SFファンの平均年齢は毎年1歳上がる」とか、「シューティングゲーム(あるいは格闘ゲーム)はマニアが滅ぼす」とか。頂が高く、険しい山が生半な登山者を拒むように、入り口を厳しくし過ぎると、寄り付くものすらいなくなる。山はともかくとして、作品ジャンルは寄り付くものがいなくなると滅んでしまうので、入り口は緩やかに、先に進むにつれ険しく、という形が望ましい*3


ここまでつらつら書いてきて、結局は「偏愛もちたるプロフェッショナルオタクは、まだまだアマチュアな、入り口付近に到達したオタクには優しくするがよろし」ということを書きたいだけ。


にわかなファンに眉をひそめ、偏愛の不足を揶揄する古参は、「技は見て盗め」という昔気質な職人に似ている。むやみやたらに親切にする必要はないだろうけど、持っているアドバンテージは後ろからやってきた仲間候補に分けたらいい。原作に触れてくれたら公式も潤うし、なにせ自分は損しない。そして運よく仲間が増えれば、新たな地平も見えてくるかもしれないし。


ネガティブな状況にはポジティブを生む行動で応じるという、シンプルな対応が好みである。

*1:村上春樹柴田元幸著の『翻訳夜話』には「かたよりのある愛情」についての興味深い言及があった記憶がある

*2:「感じられない」であることは重要。相手の表現力がその本人の偏愛に対して必要十分とは限らないから

*3:ゲームのチュートリアルに通じるものがある

二次創作活動と同人誌即売会のあれやこれに思う「やさしい世界」

5月13日から15日までの3日間、声を張り上げ続けて喉がマッハ。


その間、ホッテントリに「同人やめました」なる記事が入ってきていた。

同人やめました - おとなになりたくなかった

一年前に書かれた記事だけれども、とてもいろいろなことを思わせる記事で、何度も読みふけっている。


特にコメント欄でブログ主は、

未だに自分の作品が誰からも必要とされていないのではと思うと作品を作る気力が湧きません。
売れなくても好きなものを好きなように描いていた頃に戻りたいです。

と残しており、このくだりはなんとも胸に刺さるものがある。


「必要とされていない→作品を作る気力がない」
「売れなくても好きなように描いていた」が両立しているということは、

「どこかの誰かが必要としてくれているという希望があるから、好きなものを好きなように描けていた」という構図が見えてくる。
その次のコメントには、

あんなに一生懸命描いたのに、まだダメなのか…と、引退する一年前くらいからイベントに出るたびに打ちのめされていました。

ともある。「まだダメ」ということが何を指しているのかは不明瞭だけれど、おそらく気にしているのは「売上*1」だろう。

ブログ主が希望を見出していた「二次創作活動と同人誌即売会」の世界には、いまや絶望しかない、という叫びがあふれている。


……と、ここまでこう書いてきてしまうと、まるでブログ主の心理をばっさり切りたくて書いているかのようだけれど、本稿の趣旨はそういうことではない。

ここで取り扱いたいのは、「二次創作活動とそれに付随する同人誌即売会は、きわめて繊細な欲望の両立に寄り添っているんだな……」というある種の感慨の念だ。


なお、私も二次創作活動をする。それも、ほとんど自分のためだけにする。どういうことかというと、「ある作品を読む→見えてくる風景がもっと精密に見たくなる→公式から供給されることはありえない→己で書くしかないから書く」という流れで、自分が読んでしまえば満足するので、結局それが表に出ていくことはない。

けれど個人サイトの全盛期、それを不意に「やってみようかな」と思い、個人サイトを作った。扱う作品はひとつのみで、それ以外は基本的には何も載せなかった。閲覧者は作品に興味があるのであって、"私"に興味があるわけではないから、複数作品をまたいでもノイズになるだけだと思った。

最初の時点でいくつかの作品を並べ、あるサーチ*2に登録した。3日に一度は更新もしていた。更新のたびにごく短い二次創作を書き下ろし、その数は100を超えた。その間に長編も載せていた。未完放置は大嫌いなので、完結したものしか載せなかった。最終的には数万字を超える、テキストとしては長めのものもいくつかあった。

Web拍手も設置してみた。ごくたまに感想が届き、舞い上がるほど喜んだ。必ず返事を書いた――あれ以来、「拍手返礼」が義務感からのものではないと知った。嬉しくて、なんとかお返しをしたくてするのだ。まあ、悪意のあるコメントが送られてこない程度の小さいサイトだったからだろう。

ただし、一度も同人誌即売会へのサークル参加には踏み切らなかった。ひとつには、「交流したくない」という欲があったし、もう一つには、「この文章は私にとっては必要なものだったが、他の人にとってはおそらくそうではないだろう」と思ったからだ。

自分ではそれなりの分量の文字を書き連ねておいて言えたことではないが、合わない相手の文章を読むのはたまらなく苦痛である。私は同人誌即売会ではめったに小説に手を出さない。自分にとってのはずれ率が高すぎる。


今ではそのWebサイトは開店休業状態である。なにせ、その作品を書かなくなってしまった*3。今でもちまちま別作品は書いているが、それは持って行き場がないものであり、PCの中で私だけが読み返すものになっている。

それでもまれに、「これは公開してみようかな」と思うものがあって、Pixivにアップしてみたりもする。旬のジャンルを追っているわけではないし、交流も持っていないが、ブクマや評価がつくと嬉しい。ある作品だけは意外なほどにブクマが付いて、とても驚いた。嬉しかったから、つい調子にのって続編を書こうとしてみてしまった。結局いい形にならなくて、それはやめてしまったけれど。


そんな行為をしたことがあるから、評価や感想の効能――毒は知っているつもりである。



閑話休題、「やさしい世界」について。
自分が力と時間と心を割いて作り上げた「同人誌*4」が誰かに手に取ってもらえ、しかもそこに金銭を支払ってもらえるというのは、ある種の「肯定」「報われ」として作用しただろう、と思う。

その先に――くり返すがその"先"に――穏やかな交流や深い作品考察の交換の可能性がある。同人誌を手に取ってもらえることはゲートなのだろう。手に取って、金銭を支払ってもらえたことで、心のゲートを一段階開くような。

即売会にある(ブログ主が懐古するのに合わせるなら『あった』)「やさしさ」とは、好意や親愛の代替のように私には思える。

「義理で感想を言うのが苦痛」「本音が分からず人間不信ぎみに」などなど、コミュニケーションの断絶の言葉と、「結局交流上手な方が売れる」「売上は他所に遠く及ばない」など、自分と他人を比較し、売上を気にする言葉が併存するのは、その二つが機能的に隣接しているからなのだろう。


TwitterとPixivの台頭で可視化された世界は光が強すぎて、まるで隅々まで見渡せるような気がしてしまうだろう。自分がそこを閲覧する時には膨大な数の作品が一望できているように見えるから。

見える側の感覚で見られる側に立つと、あまりにも自分が見られていないように感じるだろう。

けれど実は、ほんとうは、そうでもない。

例えば電子書籍の世界では「検索という能動的行為では、出会えるものに限りがある」というのが今や常識となりつつある。探せないものは売れない、だからまずは知られなくては、というのがセオリーだ。

そんな例を出したってなんの慰めにもならないだろうけれど、思った以上に、感じている以上に、我々は「そもそも見られていない」。だから、「見られたのに手に取ってもらえない」と感じたとしたら、それはきっと錯覚だ。

世界は相変わらず薄暗く、まだ出会っていない人は山ほどいる。
TwitterとPixivの照らした地平など、大したことはない。


ブログ主が同人誌即売会に見出した希望は、その影が薄くなってしまっただけだ。
その希望はきっとまだそこにあるはずだと私は思う。

例えば日本最大の同人誌即売会コミックマーケットでは、一日に10万人以上の人が訪れるという。そのうちの数人程度すらも自分のことを知らないとしたら、それはとても恵まれた――希望があることだろう。

*1:もしかすると、この言葉は同人誌原理主義的にはなじまないのかもしれない。同人誌即売会では「販売」を用いず、「頒布」を用いるくらいだから

*2:サイトの傾向をタグ等で示した登録型リンク集のこと

*3:本当はまだ書いている。完結していないから出さないだけだ

*4:手に取れる物体であることはそれなりに重要である

VALKYRIE ANATOMIA-THE ORIGIN-

www.valkyrieanatomia.com

をちまちまとやっている。


往年の『VALKYRIE PROFILE』ファンとして、という要素が大きいけれど、もう一個、欠かすことができない要素に、シナリオ担当、藤沢文翁氏の存在がある。


藤沢文翁氏と言えば、朗読劇『SOUND THEATRE』の創始者として著名であり、作詞、劇脚本、小説はもちろん、演出やプロデュースの面でもまれなる活躍をしている方だ。

何度か『SOUND THEATRE』の舞台を観劇する中で、その作劇に胸躍らせてきた。「読みあげる」「聴かせる」を主軸に、けれど視覚的な演出は決しておろそかにすることなく、観客の想像力を大いに刺激するスタイル。命を扱いながらも決して悲壮になりすぎることなく、人間以外を描きながら人間を思わせる構造。

中でも、照明演出装置 .image(ドットイメージ)を活用した舞台『Valkyrie ~Story from RHINE GOLD~』*1(以下『ラインの黄金』)は、キャッチーな演出と物語的な深みを両立し、北欧神話の再解釈を見事に成立させていた。多くの作品で命を扱ってきた『SOUND THEATRE』の中でも、独特の存在感を持っていると思う。



で、だ。
その藤沢文翁氏が、またValkyrieを描くというのだから、これは『VP』ファンとしてもプレイせねばなるまい、ということで、プレイをしたわけだ。

まず、レナス・ヴァルキュリアのCVにひっくり返ったね。沢城みゆきさんである。『ラインの黄金』でブリュンヒルデワルキューレ)を演じた沢城さんが、ヴァルキュリアを。そしてオーディンは……NPCなので確認できていないが、どうやら山寺宏一氏であるように聞こえる。こちらも、『ラインの黄金』でオーディンを演じた*2山寺氏だ。……つながっているなあ!
私はまだ辿り着いていないが、『VALKYRIE ANATOMIA-THE ORIGIN-』(以下『アナトミア』)のプロローグでは既にロキやソーの存在は明かされているので、こちらのキャストもかぶらせてくるのか、気になるところ。


しかも、両作品のフレーズも明確に関連性がある。『ラインの黄金』のコピーは「その日、神々は汚される」であり、一方の『アナトミア』は「その日、神々が汚された」。

厳密に作品をつなげてくるかどうかは不明だけれども、『ラインの黄金』は未来想起、『アナトミア』が過去回想という位置づけの差はなかなか興味深い。



『アナトミア』のシステム面の話に移る。
バトルは、過去の『VP』シリーズを踏襲し、ターン制リアルタイムアクティブバトル*3。クエスト進行にはいわゆるスタミナ(作中ではAP)を使用し、すごろく風マップを移動・探索、必要に応じて休息する。このうち、移動のみAPがマイナスでも実行することが可能なので、APの運用にひとくせを加えている。

バトルはオート戦闘も可能。武器の育成が十分なら、序盤はオートでもそこそこ戦える。ターン制である都合上、被弾が避けられないので、中盤以降は運用もシビアになってきそうな気配だ。

主な有料の要素、いわゆるガチャは「武器生成」に相当する。キャラクターはシナリオ進行で勝手に増えていくのであり、このあたりも、シナリオに藤沢氏を起用したねらいとマッチする。物語についてはランダム要素はないということだからだ。
レア度は現状、6段階。先日10連生成(一つおまけがつく)をしたら、星5が3つ、星4が4つ、星3が4つという結果だったので、まあなるほどそのあたりだろう、という感じである。


……そろそろ書くのが疲れてきたので、続きはまた次回。シナリオの話がしたいね。

*1:こちらの読みは「ワルキューレ」である

*2:もともとは井上和彦氏がキャスティングされていたが、井上氏の急病により、急遽代役を務めた。なお、代役決定時点で本番まで24時間を切っていたという(藤沢氏のブログより)。山寺氏はもちろん、それをフォローする周囲のキャストやスタッフも凄まじい

*3:交替ターン制だが、各ターン内ではリアルタイム進行

「そんなつもりじゃなかった」マウンティング

「そんなつもりじゃなかった」

 という発語にうんざりした経緯があって、こんなタイトルをつけている。




 先に結論から書く。

 そんなつもりじゃなかったことを認識している相手に対して
「そんなつもりじゃなかった」
 と発語することはマウンティングの一種であって、
 相手に免罪を要請する卑劣な手だ。



「そんなつもりじゃなかった(そう、つまり君は誤解してるんだ。君は僕に悪意があったか、そうでなければなんらかの思惑があって行動したかのように言うけれど、正直僕はそこまで深いことは考えてなかった。誤解なんだ、誤解なんだ、君が傷ついているのは、怒っているのは、君の誤解に基づくものなんだよ、だって僕にはそんな悪意も思惑もないんだから。君が誤解したのが原因なのさ。君の誤解が解ければこんな居心地の悪い議論はしなくて済んで、次の段階に進めるだろう、だから僕の悪意や思惑を勝手に決めつけないでおくれよ、決めつけた途端に間違っているのは君だからね。僕の内心は僕の聖域だから、君が外からどう言い募ろうと、そんなつもりじゃなかったことは揺るがないよ。だからその誤解を解いて、決めつけはやめてくれ、それが誠実な態度ってもんだろう)」

 ぐらいのことは言っているのだ。
 ……そして、「その発言はつまりこれぐらいのことは言っているわけだが」と確認すると、「そんなつもりじゃなかった」以下ループ。

 なお、「そんなつもりじゃなかったことを認識している相手に対して」という前置きは重要である。本当に誤解しているのなら、その誤解は解くべきだろうからだ。
 



 ある程度発展したモラリティを持ち合わせたケンカでは、実は「謝罪」はそれなりに強いカードでもある。
 謝罪した時点で、相手に免罪を迫れるからだ。
 謝っているのに許さないなんてそっちこそ酷い、というカウンターがあるし、弱い態度を見せた相手をさらに打ちのめすのには心理的抵抗を持つ人もいるだろう。
 むろん、過失や罪を認めた時点で隙が生まれるので諸刃の剣ではあるわけだが……

 「悪かった」などの直接的な謝罪に対して、
 「そんなつもりじゃなかった」はさらに一手卑劣である。
 謝罪の文言を含んでおらず、解釈の仕手に責任を転嫁している。

 内心を忖度してくれ、という要請は、行動の過ちを見逃してほしいという願望の言い換えではなかろうか。
 内心は誠実だから、正義だから、高潔だから……そんなつもりじゃなかった【から】なんだというのか。

 そんなつもりじゃなかったことはとっくに知っているのだ。


 言葉も行動も、何もかも完璧にできないのは仕方ないと思える。
 うかつにも失敗し、時に人を傷つけてしまうこともあるはずだ。

 うかつな発言も行動も全面的に許すから、
 せめてその発言の卑劣さを自覚してもらえないものだろうか、と思い訴えるけれども、
 この種の構造的な指摘は多くの相手にあまりにも通じにくいので、またため息をついている。

文脈を担保するあれやこれ

ブコメでスターを稼いで調子に乗りたい程度のはてな歴。

「お前がママになるんだよ!」というツイートがネットスラング化していった変遷 - 根室記念館

この台詞が例えばエロ漫画ないしはこのような場面を描いた作品内の台詞としてのみ成立していたなら、「巧いこと言わせるもんだな」と感心するだけで済ませる人は増えただろうし、文脈って重要かつ繊細だよな

2016/05/07 19:26
b.hatena.ne.jp

思いのほか星がついたので調子乗ってもうちょっと考えてみる。

元ツイートは、

「お母さーん、じゃねえんだよ!今からお前がママになるんだよオラッ!」が無理矢理女子中学生に膣内射精する時に言いたいセリフ1位ですね

だそうだ(元ブログ記事の画像より書き起こし)。

このツイートが気持ち悪いかどうか、のような感性の話はとりあえずおいておいて*1、元発言がどのような文脈だと解釈されたか、その文脈を規定した個所はどこか、の話をしたい。

くり返すけれども、話したいのは文脈規定力の話だよ。



さて、元ツイートを見ると、なんといっても「言いたい」が圧倒的なパワーを持っている。「~たい」という希望・願望の助動詞が、暗黙の主語として(僕が)以外をほとんど受けつけないので、この「言いたい」で、文全体の主語が「僕」になっている。

で、「僕が」を補って文全体を再読すると、
「僕が無理矢理~射精する」という文が改めて立ち上がり、「そのような状況を想定するツイート主」という姿が浮かび上がる。

同じ理由で、実は「時」も影響力を持っている。主観性を高めにする印象を持つ語だからだ。

そのうえ「1位」という語で、2位、3位があるかのような含みが生まれ、「その場面についてあれこれ考えるツイート主」という姿も想起されうる*2


実に効率的にツイート主の姿が錬成されている。単語ってのは意外なほどに様々な印象を生み出すものだ。



そんなわけで、元発言をちょっといじらせてもらう。例えば「言わせたい」で暗黙の主語をすり替え*3、「時」を「場面」に入れ替え、語順を入れ替え、「1位」を削除するとこうなる。

  • 無理矢理女子中学生に膣内射精する場面言わせたいセリフは「お母さーん、じゃねえんだよ!今からお前がママになるんだよオラッ!」です

複数考えている感を追加するとこう。

  • 無理矢理女子中学生に膣内射精する場面で言わせたいセリフ「お母さーん、じゃねえんだよ!今からお前がママになるんだよオラッ!」がある

創作ですよ、ネタですよ感を増し増しにするには主語を立てたほうがわかりやすい。

  • モブが無理矢理女子中学生に膣内射精する場面で言わせたいセリフは「お母さーん、じゃねえんだよ!今からお前がママになるんだよオラッ!」です


……くりかえすけど、「創作・想像だったら許されるのか」「ネタなら許されるのか」みたいな話はここではしない。


しないのだが、

 文脈を過たずに表現できているのか?

という問いかけはあっていいかなと思った。


上記のように「文脈」のすり替えを行った例を見て、「こう書いてあったら受け取り方が違う」と感じてくれたら、「この発言は文脈の表現がずれていないか?」をたまに考えてみてもらえると嬉しい。


失言は失言だし、ゾーニングは重要。Twitterゾーニングに向いていない、もその通りだと思う。

けど、技術的に文章力が不足していたり、字数の制限があったりなどの状況下で文が下手うった場合に、それが即座に人格攻撃に繋がるのは厳しすぎだよね、とも感じている。

特にその道のプロでもないならなおさら。

*1:個人個人異なるものでもあることだし

*2:ブログ主は「恐らく2位も3位も考えてなかった」と書いているが、この際事実はあんまり関係ないのだと思う

*3:ブログ主は一貫して「自分が言うとしたら」の想定のようなので、この調整は半ば虚偽である