歌手・鈴村健一は合体後の姿です - 総体としての鈴村健一論
前置きとして。
aikoに関するあるエントリ(スタバでaikoを聴いていたら隣にaiko的世界が生まれていた - 真顔日記)に触発されたことをまず白状したい。わたしはaikoの曲は何曲かを聞き知っているだけで、それを保有したことはなく、なので、aikoに対して特別な思いを持っていない*1。
けれど、それに類するというか、ベクトルは違ってもスカラー量は似ていそうな思いを抱いている相手はいる。
それが、鈴村健一という歌手だ。
というわけで、わたしはあのエントリの文章に嫉妬をしたので、鈴村健一という歌手の話をする。
「歌手の」「歌手の」とくり返すのは、彼がそのメインの活動を「声優」においているからだ。世間一般的にも、鈴村健一といえば、まず声優としての彼の活躍が連想されるはずだ。もちろんその軸足の所在はとても重要なのだけれど、今はまず、歌手としての鈴村健一の話からする。声優としての鈴村健一は、まずは一旦さておいて。
特に2017年1月時点での最新シングルを基盤として話すのがわかりやすいので、そこから始めたい。
鈴村健一の最新シングル『HIDE-AND-SEEK』は、その表題曲「HIDE-AND-SEEK」と、カップリング曲「ポーカーフェイス」の2曲を収録した盤で、TVアニメ『はんだくん』とのタイアップシングル*2でもある。つまりこれは、「HIDE-AND-SEEK」という楽曲(の特に歌詞)が『はんだくん』とよりそって*3書かれたことを意味する。
ここから各曲について。
「HIDE-AND-SEEK*4」における世界では、主人公(仮にハイド君)は人の視線から逃げている。探されたり、見つめられたりはノーサンキュー。目を合わせるなんてもってのほか。でも内心では〈みんなで笑ったりしたい〉と、漠然としたポジティブな憧れをもっている。なお、笑うほかに何をしたいのかはこの時点では定まっていない。
直接は関係ないけれど、テレビアニメ『監獄学園』の第1話で、キヨシのセリフが微妙に改変された中に、「俺はもっと女子と、もっといろいろ……なんかいろいろしたいんだ!」がある。原作に比べて闇雲さがてんこ盛りになっていて、男子高校生の荒唐無稽な妄想の存在が匂い立つ。横手美智子さんによる名改変だと思います!
話がそれた。
まあつまり、ハイド君は、具体的に何がどう…ということはわからないなりに、「みんな」に加わることを願っている人だということだ。俗な表現にすると、リア充になりたいコミュ障と言える。
リア充への憧れを叶える第一歩として、ハイド君は「もういいかい」と呼ぶ声に「もういいよ」と応えることから始めようとしている。顔を合わせることは無理だけど、定型文で応えるぐらいならなんとか……という、これはもう相当奥手な主人公像だ。なんなら「オクテ」と書いてもいいくらい。
ところが、その裏面(という言い方も今では相当古い言い方なのだけど)の楽曲「ポーカーフェイス」では一転して、主人公は相手をガン見している。
表情を〈言葉よりもピュアな〉ものとして位置付け、〈目をそらさず〉、視線を相手に向け続けている。なんなら「相手」はその口調からして女性らしいので、どうやら恋人までいる。ハイド君が〈君と目を合わせることすらできな〉かったのとは大違いだ。
〈「嘘くさいよ」って ちゃかしすぎちゃ〉うこともあるぐらいなので、きっと圧倒的にコミュニケーション強者に違いない。「ちゃかす」なんて高等技能、コミュ障が使えるわけはないのだからして。最後には、あ、ああ……〈愛〉とか言いはじめますし??
ということは、この2人の主人公は別人、と言ってさしつかえない。もしかすると時間軸の異なる同一人物、という可能性はあるが、それにしたって、ほぼ別人だと言ってもいいはずである。なんなら声だって違うかもしれない*5。というわけで、「ポーカーフェイス」の主人公は仮にフェイス君と呼ぶ。
もし仮に、ハイド君とフェイス君が出会ったとしたら、ハイド君がとにかく避けようとしている視線を、フェイス君は突き刺そうとするだろう。「視線(視覚)」という点において、この2人は思い切りすれ違っているのだから。
ハイド君が勇気を振り絞って口に出す定型文の声も、フェイス君は「それより顔見せろや」ぐらいの勢いで脇に置いてしまうに違いない。鬼だ(かくれんぼ的な意味で)。
もちろん、両曲とも鈴村健一が作詞し、歌ってもいるので、ハイド君もフェイス君も、鈴村健一が生み出し、表現した人格だ。
それなのに、ハイド君とフェイス君は別人であり、互いにわかり合えない。視覚を拒絶し、せめて聴覚に訴えることから始めようとするハイド君に対して、視覚ばかりを振り向けるフェイス君はある種、残酷ですらある。
でね、ここからが歌手・鈴村健一の面白くってややこしいところだとわたしは思っているんですけど。
この仮称・ハイド君とフェイス君は、実はジャケットに登場している。顔を出しているのがフェイス君(演:鈴村健一)で、裏側に頭から逃げ込んでいるのがハイド君(演:鈴村健一)だ。
つまり、ここで起こっているのは、役者・鈴村健一による芝居なのだ。ハイド君を演じる鈴村健一と、フェイス君を演じる鈴村健一がいて、それは映像(写真も映像に含まれる)の中では同時並行的に存在している。
メインの活動が声優――役者である鈴村健一にとって、歌の人格が“まごうことなき”自分自身である必然性はきっとそこまで高くないのだろう。ならば、自分の中にあるいくつもの「言い分」をそれぞれキャラクターにして、楽曲の中に独立させてしまって構わない。役者・鈴村健一は、その楽曲ごとにハイド君になり、フェイス君になる。もっと多彩な人物にも、時には犬にだって。
そうやって一旦解体し、輪郭を確かめた人格――すなわち楽曲たちを、自ら歌うことでふたたび自分自身に引き取っていく試みこそが、総体としての「歌手・鈴村健一」なのだとわたしは解釈する。それはいわば、歌唱と身体(写真)によるアウフヘーベンだ。
「歌手・鈴村健一」はすでに合体を済ませた姿なのだ。
このように、別個のパーソナリティとして仕立てた心を、自分自身の身体と声で引き取って、総体としての「鈴村健一」を表現する、という《解体・再構築》の流れは、鈴村健一の「いつものやり方」でもある。「INTENTION TOUR」の映像パッケージでも、多くのライブのパンフレットでも、鈴村健一は自分の像を一画面にいくつも並べて提示してきた。
このようなバランス感覚は、かつてミニアルバム『互』で試みられ、シングル「All right」「brand new」などに顕著に見られるものでもある。
「何かひとつ極端なことを言ったからには、それにカウンターを喰らわせずにはいられない」……というのが鈴村健一のかねてからのくせ*6だった。
そのカウンターの存在は、あくまでも「総体」としてのアイデンティティの獲得や、言葉の脱構築*7に貢献していると言える。
絶え間ない自分自身への“うたぐり”、「本当にそうか? 別の見方もあるんじゃないか?」という問いかけは、時に、一見すると矛盾する表現に着地していってしまう。
鈴村健一は、その矛盾を個別の人格(楽曲)に結実させて解消する代わりに、一曲一曲を自ら、誠実に歌い上げることによってもう一度まとめあげ、その自己矛盾すら〈正解〉として、全面的に肯定してきたのだ。
そして、この構図は、ひとつの可能性――希望を内包することができる。
それは、「歌手・鈴村健一」は、ある瞬間にハイド君であり、ある瞬間にフェイス君であり――ある瞬間には「わたし」だ、という希望だ。
aikoを聴く人がほとんどaikoであるのとは対照的に、鈴村健一はときに「わたし」なのである。だからこそ、彼の歌う楽曲はある時、ある場所、ある場面で強烈に、とても個人的な想いを伴って、身体にしみ込んでいくようにわたしには感じられるのだった。
……なんてことをまとめようと思っていたら、新しいミニアルバム『NAKED MAN』のリード曲「NAKED MAN」には、〈重ね着しすぎた僕のために〉というフレーズが含まれておりましてですね、自らの多重性についての自覚とか、それを適宜リセットしていく感覚とかに、ああもう負けました……と思ったのでした。*8
発売を楽しみにしております。
以下余談。
上の「NAKED MAN」のMusic Clipは、画角4:3、映像も一旦VHSに落としてからデジタルに移し直しているそうだ*9。かつ、全メンバーが過剰なウィッグと衣装。
この映像の意図はおそらく、「カメラが1970年代に存在する」(=観測者が1970年代に生きる人である)ということだろう。DEEP PURPLEを思い出しましたし。もうちょっときっちり決め込めば、1974年9月あたりになるかもしれない。鈴村健一氏の生年月日あたりに。
そして、その『観測者』からすると、彼らはあのような〈重ね着しすぎた〉姿に見えてしまう…… とか、そんな感じかもしれませんね。そこまではまだ全編を観ていないのでわからないですけれど。
どうなんでしょうね。
*1:くだんのエントリ風にいうと、わたしはあまりaikoではない
*2:「あすなろ」「シロイカラス」に続き、アニメとしては3枚目のタイアップとなる
*3:≠影響下で
*4:HIDE-AND-SEEKとは「かくれんぼ」のことで、歌詞中にも「もういいかい」「もういいよ」のフレーズが何度となく繰り返されている。また、これは筆記上は一重カギにくくられているので、歌中の世界で発声されている言葉でもある。
*5:アニメ『はんだくん』とアニメ『ばらかもん』の関係からいっても
*6:このあたりについては、津田健次郎 責任編集『EDGE』でのインタビューにおいて、「バランス」という表現で明瞭に語られている。
*7:ある歌では「Aである」と歌い、ある歌では「Aでない」と歌うために、表現の上では矛盾するが、それを歌唱によって総体の側に引き取ることによって、意味としての矛盾を解消している例が散見される。
*8:ところで、このフレーズ自体は福本伸行『天 -天和通りの快男児』における、「成功を積みすぎると満足に動けない」に相通ずるものがありますね。かの作品では「成功」でしたが、「NAKED MAN」では〈重ね着〉すなわちファッションであり、他者からの視線と関わるもの、「観測される自分」と不可分である点が大きな違いと言えます。
*9:2016年12月24日「Original Entertainment Paradise 2016」両国公演1日目MCより。
覚書 キャプションのダミーあれこれ
震えますね。間違えた文章を書いたのではなく、テキストボックスにダミーのテキストを入れていたのが、残ってしまった、という事例です*1。ダミーを残したまま刷ってしまう…… 雑誌におけるひとつの悪夢と言えましょう。
実際に入っていたテキストはこう。
キャプ 中ゴ BBB_キャプ 9Q11H フライパンにオリーブ油とにんにくを入れてあたため、香りが出たらにんにく
中ゴシックBBB(モリサワ)、文字サイズは9級、歯送り11H、という情報が含まれていて、個人的にはかなり親切な類のダミーだと感じます。キャプ末に文字数を表すWがあると、さらに親切かもしれません。定例のページだから省かれているのかしら。
この手のダミーでは、「正しいテキストと間違うようなダミーは入れるな」が鉄則かと思います。私が好んで使用するのは
- □□□□□□□□□■□□□□□□□□□■□□□□□□□□□■
- 亜種で □□□□□□□□□10□□□□□□□□□20□□□□□□□□□30
- これはダミーですこれはダミーですこれはダミーですこれはダミーですこれはダミーです
- さしかえ□さしかえ□さしかえ□さしかえ□さしかえ□さしかえ□さしかえ□さしかえ□
などの繰り返し系のもので、パッと見での違和感が強く、かつ文字数が数えやすいところが嬉しい。プロポーショナル系のフォントを使用している誌面だと厳密な文字数を数えてもズレることがあるので、あくまで参考とはいえ、やはりW数はあるに越したことはない。
また、電話番号、価格のダミーについても、
- 03-0000-0000 ¥0,000
タイプよりは、
- 03-●●-●● ¥●●
のほうが黒くて視認性が高いという点で好んでいます。電話番号のほうは0埋めでもまだしもなんとかなるんですけど、価格は0で埋めておくと特に見落としやすい気がしますので、みっともないのを承知で●を使用。黒い文字に対する赤入れは見やすく書くのにコツが要りますが、それはちょっとしたテクニックですし。
また、ブコメにあった「ダミーテキストには必ず特定の文字列を入れて、校了前にその語で一括検索チェック」というのはめちゃくちゃ有効!!
……だとは思うのですが、オペレーターとデザイナーが同一の現場にいるなど、親密に意思疎通が図れる場合、という条件がついてしまいそうに思えます。
少なくとも、私が経験した現場の多くで、デザイナーとオペレーターは別の会社の方でしたし、そもそも、デザイナーごとにダミーテキストのパターンも違いました。きっちり意思疎通できる単発の書籍か、あるいはよほど定例化して統率の取れている定期刊行誌などでないと、なかなか難しいかな……というのが率直な印象です。
嗚呼、哀しき年末進行……身につまされます。私も気を付けなくては!
ところで、冒頭の記事の事例。
「色校時のライター側の見落としによるダミー残り(=さしかえ指示そのものがなかった)」なのか、「オペレーターの作業漏れによるダミー残り(=さしかえの指示はしたが訂正し損ねた)」なのかによって責任の所在がまるっきり異なります。どちらのほうがよりあり得るか、その現場ごとに異なるかと思いますが、だいたいの場合は―― おや、こんな時間なのに誰か来たようだ。
*1:「だと思います」ではなく、「事例です」。
そういえばあの時ぼくはセンサーくんだった
起き抜けの午後、シャワーを浴びている最中に唐突に記憶がつながって、「そういえばあの時ぼくはセンサーくんだった」と思い出した。
いつもの様式なら「フェイクありで」などとして、実際にフェイクを入れてしまうのだけれど、この記憶は今だけ鮮明にとらえられるもののように思えるので、できるだけ事実の通りに思い起こし、書き起こそうと思う。この文章にフェイクを混ぜてしまったら、ぼくは自分の文章によって記憶を外側から改ざんしてしまうだろうから。
もう20年以上は前のこと、当時のぼくは小学生だった。
ぼくの通っていた小学校は大きく二棟――正確にはそのそれぞれがさらに二棟――に分かれており、昇降口を抜けて左手側に下級生棟、右手側に上級生棟があった。各棟には各学年4つの教室と、一部の専門室(音楽室とか、家庭科室とか)が分かれて入っていて、それらをつなぐ部分にも、図書室なんかがあったように記憶している。
そして、昇降口を上がって右手に折れ、左手には上に上がる階段、右手には上級生側の教室に入る廊下が見えるロビー的空間に、階段に寄り添うように売店があった。売店、というほどのスペースではきっとない。その空間に、スタンド式の、回転するタイプの本棚がいくつか展開され、ノートがさしてあって、キャスターのついたガラスの展示ケースには中にも上にも小物が置いてあった。三角定規やら分度器、肥後守なんかはケースの中だったかな。
そしてそこには、「売店のおっちゃん」がいたのだ。禿げ気味で、藍色のエプロンをして、陽気なおっちゃんが。
おっちゃんはいつも立っていたように思う。休み時間で、生徒を見たから立ち上がっただけなのかもしれない。小学校では、授業時間中には商売はそうそう起こらないだろうから。
階段の下には扉があったような記憶もある。たぶんきっと倉庫だろう。もしかしたら売店のおっちゃんがちらっと座れる机のようなスペースがあったかもしれない。下校時刻を過ぎたら、そこにガラスケースやら棚やらを押し込んでいたのだろう。
ぴかぴかの1年生、学校案内の最中に、そこも紹介された。必要なものはここで買えるから、というような。上級生の棟に近い場所にあったから、1年生にとっては少しの遠出。じゆうちょう130円。それだけはよく覚えている。
1年生に上がってすぐ、ぼくが初めて売店のおっちゃんと話した時、そこでおっちゃんはぼくに「センサーくん」とあだなをつけてしまった。ぼくの通っていた小学校では当時、1年生はみな名札をつけるきまりだった(今時、個人情報を胸からさげることもないだろうが)。ちゃんと名乗ったのだと思うが、こちらがうまく名乗らなくても名前は読めただろう。話が前後してしまったが、売店のおっちゃんは、ぼくの名前をもじって「センサーくん」と呼んだのだった。
ぼくがその小学校に通っている6年間、売店のおっちゃんは代替わりをせず、おっちゃんにとってぼくは変わらず「センサーくん」であり続けた。
今、大人になって、6年間ものあいだ、あるひとりの子どもを「センサーくん」と呼び続けることについて、ぼくは何かしらを思ってしまう。
ついでに、ぼくは女性なので、女の子を「センサーくん」と呼んでいたことにもなる。――なら一人称を「わたし」にしろよわかりづらい、との用向きもあろうが、3音節の「ぼくは」のほうが、「わたしは」よりおさまりがいい気がしてつい。
ともあれ。
ぼくが「センサーくん」であったことを、もちろんおっちゃんは忘れてくれていて構わない。いい思い出になっているなら、それはとてもすごいことだ。
わたしにとってはいい思い出だ。こうして、たまたまとらえたこの日のこのうちに、書き残しておきたくなるくらいに。
きっと、いまあの売店のおっちゃんと再会したとして、お互いのことを覚えていたとして、話が弾むのはせいぜい5分だろうが、5分も話が弾めば十分すぎるはずだ。
2017年もよろしくお願いします。
知的財産権の侵害と営業妨害について、つれづれなる
上記のとてもとても良い記事を読みまして。二度、三度と通読しまして。
そして、「あーあ」となりました。この「あーあ」はいろんな気持ちがこもった「あーあ」なのです。なので、書く。
その後、村上謙三久さんがTwitterの『ラジオの時間』公式アカウント(@time_of_radio)で
本来なら「著作権」というより、「権利意識」という言い方をするべきでした。(https://twitter.com/time_of_radio/status/810305093404913665)
偉そうにブログで書いてしまいましたが、同時に「僕ももう少し踏み込んで学んでいかなければ」と反省しております。(https://twitter.com/time_of_radio/status/810323231186026496)
と書いているように、「この言葉づかいでいいんだっけ?」とクエスチョンマークが浮かぶ個所がいくつかあるように思えるものの、大筋として十分に正しく、同時に、この現実の情勢に対してあまりに無力というか、あまりに遠しなのです。私は軽く絶望した!*1ので、せめては新しきエントリを記して、つれづれなる思索に挑みますか、という気持ちになり、こんなことを書き始めています。
フランスよりも遠いぞぉ、この地平は。
以下、「引用」とだけある場合は、上述のエントリより。
(1)Twitterで勝手に画像を上げちゃいけないのはわかってます。でも、アイコンやヘッダーならOKですよね?
×です。つぶやきであろうと、アイコンであろうと同じです。たぶん3~5割ぐらいの人がアウトなのでは? トリミングしたり、一部修正したりしても「×」です。写真のみならず、イラスト、漫画、広告なども基本的にはダメです。 (引用)
なぜ「×」なのか? 公衆送信権・送信可能化権(著作権法23条1項)を侵害しているからですね。トリミング、一部修正は同一性保持権(著作権法20条1項)の侵害にあたる可能性があります。公式画像をキャプチャしてだよ、それでさあ、他の画像とがっちゃんこなんかしちゃってアイコンにしたら、そらもう! フルコンボよ!
人物の写真の場合には肖像権があり、特に声優やアイドルのような職業にある方たちであれば(著作権法上の明確な規定はないにせよ)パブリシティ権が認められますから、これもまた侵害行為デスよ。
Twitterアイコンなどについては、今は公式サイトが配布している例が多数あります。例えば今をときめくTVアニメ『ユーリ!!! ON ICE』でも、公式サイトの「SPECIAL」コーナーにあります(こんなふうに)。
「だからオッケーでしょ?」、ええ、改変しなければ。プリクラなどではおなじみの「フレーム」をかぶせれば、同一性保持権の侵害が成立してしまいます。
とにかく個人的にこれがキツイです。実際にTwitterをざっと眺めるだけで、それ侵害だよね?って事例は山ほど見かけます。そして、私が知的財産権の保持者ではない以上、「侵害ですよ」という指摘は法的になんの意味も持ちません。ただ、自分が見かけ、時には言葉を交わしたあの人が、「権利意識に関する知識がないか、権利意識そのものがないか、そのどちらかである」ということが、私の中では確信めいていく。これが「あーあ」なのでした。
(2)公式サイトやブログに画像が上がっているんだから、これをスクショしたり、画像保存してアップするのは問題ないはず。
×です。これらも全て権利侵害の範疇となります。 (引用)
上記と同様、公衆送信権・送信可能化権の侵害に相当します。ただし、画像URL*2直リンクであれば、原則的に「著作権法上の」問題はありません。その代わりに、サーバへの寄りかかりを発生させもするので、そのアクセス量が甚大になればサーバの処理能力を食いつぶし、極端な場合にはサーバダウンすらも引き起こしうるので、電気窃盗(盗電)のような、無体財産へのなにがしかというタイプの問題は残るんじゃないですかね。
(3)画像はNGですけど、動画からスクショするのは問題なし!
×です。声優ラジオでよく見かけますが、全て権利の侵害です。公式アカウントが権利関係をクリアしてやるのはOKですが、だからと言って、一般リスナーがやるのは×です。 (引用)
ちょっとこれは文言が説明不足かもしれないかな、と思っています。「スクショする」だけでは侵害とは言えないんじゃないでしょうか……。やはり「公開・再アップ」がセットのほうが、明確な侵害行為っぽい事例です。
それに、これは「引用」の成立に該当する可能性がそれなりにあるように思えます。
出典元を明記しつつ、スクリーンショットを明確に「従」の側に置くような自作の文章等をセットにして同じ場所に置けば、引用の要件は成立するように感じられます(これについては個人の感性です)。
トハイヱ、いえ、とはいえ、1ツイートにつき140字という制限のあるTwitterに限ってみれば、引用要件を満たせるほどの「主」をそこに乗っけられるかはとても怪しい。文字数だけが意味ではないが、意味は文字数に制限されるものですし。
また、たとえばもっと大きい話にしてみたって、アニメなどの解説を書籍で行うためにある場面の画を掲載するとした場合、それが明らかに引用の範疇だと多くの人が見なしたとしても、出版社は権利者の皆々様に確認を取りにいくでしょう。慎重にやるものですよ、こういうのって。していないとこういうこと*3になる。
(4)好きな声優さんがTwitterにアップしている写真がかわいい。よし、これを保存して、自分のアカウントでもアップしよう。
そのための公式リツイートです!
とだけ書くと、「主」が作れないので、少し枝道と知りながら書く。
自分でもダウンロード保存したい、という欲望――失礼、願いについて、アーカイブ性を根拠に正当化する理路がないでもないのだけれど、ここに応えたサービスに「ウェブ魚拓(http://megalodon.jp/)」がある。「ウェブ魚拓」の場合は、そのキャッシュに「いつの時点のキャッシュか」ということが合わせて記録されるので、ある時点でのアーカイブとしてはもちろん、データ削除による「消し逃げ」を追う証拠として、スナップショット、スクリーンショットと同様の機能を持っている。
何が言いたいかというと、アーカイブがとか言うなら「ウェブ魚拓」使いなさい、ってこった。
(5)Amazonで今度買う声優雑誌の表紙がアップされている! この本、売れてほしいんだよなあ。よし、これをスクショしてつぶやこう!
×です。Amazonの画像をアップしたい場合は、URLで紐付けしましょう。Amazonに上がっている画像自体は著作権をクリアしています。 (引用)
これが実はいちばん自分的にあいまいなところ。どうなんでしょうね?
「スクリーンショット&アップ」ですので、引用が成立しうる可能性がある。
例えば「Amazon販売ページ」のスクリーンショットに対して、「予約受けつけが開始していました! 発売日は〇〇、価格△△円。売り切れの危険があると思うので、私は即予約しました。今のうちにみんなも予約しよう!」ぐらい書くと、主従の「主」は文章の側にあると言えなくもなさそうに思えます。よりお詳しい方の説明が聞いてみたい。
もちろん、URL紐づけのほうが絶対に問題がないのは確かです。
こうしてつれづれ補足っぽいようなことを書いてきたのは、主に知的財産権の侵害事例を峻別し、その線引きを考えるためだったのだけれども、私自身の興味は、もう少しあいまいな領域にそのフォーカスがある。
具体的にはAD-LIVEです(またここかい、そりゃそうです)。
私はAD-LIVE2016全12公演を全部観て、全公演についてあれこれ書きました。書いた目的は「AD-LIVEを楽しんでもらいたい!」だったし、だからこそ「ここに書くべきでないこと」にもそれなりに熱い思いを持って臨んだのですが、全公演の上映が終了し、DVD、Blu-rayの発売を控えた今、その判断基準は変化してしかるべきなんじゃないか、と思うのですよ。
知的財産権の侵害ではなくっても、営業妨害ってことだってあるじゃないですか。
だって、「この記事があるからパッケージは買わなくていいや」となられたら困ります。誰が困るって、AD-LIVEスタッフが困り、続いて私が困ります。まだまだ続く、まだまだ広がるAD-LIVEのために、映像パッケージだって売れてほしいんです。
したがって、売上を減少させる可能性があるのなら、今までの記事は全部ひっこめたい、ひっこめなければなりません。「こりゃあ映像パッケージを買わないと損だぞ!?」と思われるような記事に仕立て直して、今までのものはひっそりと私だけが愛でられるところに……
……なーんてことが、「あーあ」に込められたのでした。
「あーあ」。
それと、『声優ラジオの時間 ユニゾン!』は購入しております。年末進行とコミケで今はさすがに厳しいので、年明け、休みになったらじっくり読むつもりです。
村上さん、良い本と良いエントリをありがとうございます! とても感謝しています。
AD-LIVE2016 BELLSON社の社員証について
AD-LIVE2016のライブビューイングで行われていた、「半券プレゼント企画」。
本当にありがたいことに、C賞の「BELLSON社 社員証」に当選したようで、現物が届きましたので、写真をちょいちょい掲載しようと思います。……特に「非公開にせよ」的なご注意はなかったので大丈夫だと思うんですけど。もしコメント欄等々でお叱りをうけるようなことがあればすぐ削除対応をしようと思っていますよ。
では、改めまして。
こちらが現物(名前部分は画像をいじって隠しました)。
カードだけ届くかと思っていたら、ストラップごとお送りくださいました。赤いネックストラップなので、責任者系(おそらくAniplex社員)の方が着用なさっていたものと思われます。もちろん、カーテンコールでの鈴村健一さん、公演中の浅沼晋太郎さんが身につけていたものではありません。*1
なお、裏面は真っ白。
……会場でちらっと見えちゃった記憶ですと、公演当日、裏側にはスケジュールとか、無線コード表とかのメモを入れた方がおられました。
カードだけを取り出すとこんな感じです。
実物は、交通系電子マネーカードや、クレジットカードのようなプラスチックカードです。
左上に入っているのは「マインドダイブ」のロゴです。パンフレットにも記載されています。
左下の数字「19820401」は、ベルソン社の創立日、1982年4月1日を数字8桁にしたものでしょう。この情報もパンフレットどおり。
左側の後ろに入っているネットワーク図は、パンフレット表紙のアレンジかと思いきや、ノードの配置が一致するところを見つけられず……もしかしたら、社員証のために作ったのかもしれないですね。
名前横の金のアイコンは、ICチップを意識したデザインかなと推測しています。デザインの基はいまのところ見当がつけられていません。
また、その下のバーコードはウソバーコードのようです。読み取りを試しましたが反応しませんでした*2。
なお、記載されていた名前についてです。
名前はローマ字で綴られており、私のところに届いたものではイングランド系の名前に近いお名前が書かれていました。しかも、とても有名な劇作家の名前にかなり似ています。このあたり、「へえ」と思いました。ただし、まったく同じ綴りではなく、綴りが一文字異なっていました。オマージュのつもりでタイプミスしたのか、本当は劇作家ではなく何か別の由来があるのかは不明です。
それはそうと、なぜ、画像をいじってまで名前を隠したかというと…… 掲載されていた綴りそのままズバリで完全検索すると、あまり大っぴらに語るものでもなさそうなページにたどり着いたからです。したがって、あんまりその綴りは公開すべきではないかな、と。もうこれ以上は言いません!
はい、そんな感じでした。
楽しすぎた3か月どころか、たいへんありがたい、貴重な記念品をいただき、AD-LIVEには本当に頭が上がりません。映像パッケージもきっちり予約しましたので、今から発売が楽しみです。アドリブクエスチョンを全力で送っていますので、もしかしたら使われるかも、という楽しみもあったりします。
どこまでもいつまでも楽しみがつきないAD-LIVE、本当に大好きです。
マラソンするアプリゲームと、運の荒波、ちょっとだけAD-LIVEの話
ガチャ一回で最高レアである☆4を一点引きしてしまったので、ボーイフレンド(仮)きらめきノート(リンク先・音注意)でマラソンしてみております。でもたぶんこれ無理なやつです。
スマートフォンゲームではもはや恒例となった「期間中のプレイ成績」によるランキングイベントは、"報われ"の構造が明確であり、極めてジャパンな感じがいたしますね*1。
しかし、アプリゲームにはもうひとつ、大きなマラソンがありますよね。リセットマラソン、通称リセマラが。
こちらは、運(ゲーマー的にはリアルラック)を試行回数で突破するという趣旨のもので、いつ終わるかもわからないところが苦しいところです。性能だけを突き詰めればいいとも限らず、俗に「終了候補」と言われるものの中でも、特に一部、場合によっては一点を狙う場合には、ことによると1000分の1以下を10連+1で狙う場合もあり*2、なかなかシビアです。
1Fの操作、256分の1を常にくり返すようなTAS(Tool-Assisted Superplay)領域のなにかを、単純な試行回数で突破するリセットマラソンは、すなわち、人力やり込みにおいてはゲーム内タイムアタック、通称TAの時に行われるプレイでもあります。
そう考えると、リセットマラソンが一部プレイヤーに積極的に実施されているこの状況は、スマホゲームプレイヤー総やり込み人化現象ともいえるような気がします。
一方で、ランダム事象のカタルシスは、ボタンを押すと餌が出てくる機械を用いた動物実験でも示されているところで、僕らは常に偶然なる事象に振りまわされているのかもしれません。
かといって、ここでいう運は、実は結果ではなかったりします。運はどちらかというと、どのように扱うべきかを試される何かです。
運の荒波を乗り越えることがゲーム性に寄与する、というのは、多くのゲームで見られる構造です。小規模なところでは、「ぷよぷよ」「テトリス」に代表される落ちもの系ゲームの「NEXT」がそれですし、より大きな流れの中で言えば、「風来のシレン」など、不思議のダンジョン系もまた、運の波をいかに乗りこなすか、ということがゲーム性の主たる部分です。
話が逸れますが、SFC版「風来のシレン」の初期ダンジョンであるテーブルマウンテンは、慣れた風来人(プレイヤーのこと)であれば、ほぼ100%攻略することができます。めちゃくちゃな大事故があると頓死することがありますが、その可能性は相当なレベルまで減ります*3。
何が言いたいかというと、「運を乗りこなし、時にねじふせることは楽しいことだ」と言いたい。
ちょっとだけAD-LIVEの話に持っていきますが、あれもまた、アドリブワードという偶然をどう扱うか、という楽しさがあるように思えます。アドリブワード自体は一定の傾向を持たされていますし、何より「任意のタイミングで引ける」ということでもあるので、コンピュータゲームにあるランダムとはまたちょっと解釈を変えるべきでしょうが、「くせになる」楽しさがあるのは間違いないと思いますよ。
なんとなく論が発散してしまったので、この辺でいったん閉じ、きらめきノートをプレイしてこようと思います。判定がかなりシビアで苦しんでいます。スタミナ食いすぎで上位難易度練習できないってばさ!
岡本信彦『Happiece』回収騒ぎについて思うこと-株式会社ランティスについての雑感
ああ、AD-LIVE大阪公演の直前にこんなニュースを目にしてしまうこと自体がとてもつらい……
岡本信彦1stフルアルバム『Happiece』収録内容不備のお知らせとお詫び | News | Lantis web site
岡本信彦さん「Happiece」収録「僕らのカタストロフィ」につきまして | News | Lantis web site
平成28年10月26日に発売いたしました岡本信彦さんの1st Full Album「Happiece」に収録されている「僕らのカタストロフィ」が、すでに発表されています鈴村健一さんの楽曲「ひとつ」と同作曲家による同楽曲であるということが発覚いたしました。
経緯につきましては、すでに楽曲が存在しているにも関わらず、CD化がされていなかったことが理由で弊社が正式な楽曲登録を行わなかったため、未発表楽曲という扱いで岡本信彦さんのアルバム制作課程*1の中で同楽曲が提案され収録されたという状況です。
メーカーである弊社の楽曲登録の不備、管理不行き届きにより、このような事態を起こしました事に関して、鈴村健一さん、岡本信彦さんはじめ、作品を楽しみにお待ちいただいておりましたファンの皆様及び関係者の皆様に多大なご迷惑をお掛けする事態となりましたことを深くお詫び申し上げます。
経緯については引用部でそれなりに説明されていると思うので、これ以上を語る必要はないと思います。
(追記)そもそも、楽曲「ひとつ」の権利関係がどのような構造になっているかも不明*2で、楽曲の再使用が権利的な意味で妥当だったのかどうか、判断できる材料はないと考えます。また、作曲(「僕らのカタストロフィ」においては作詞も担当)の倉内達矢さんが、当該楽曲に対してどのような認識だったかも定かではありません。
(さらに追記)Twitterでいくつかの誤解を見かけたので追記しておきます。
ここで話題に上がっている楽曲「ひとつ」は、アニメ『ヒカルの碁』のキャラクターソングである「ひとつ」(伊角慎一郎(CV.鈴村健一)、作詞:藤林聖子、作曲:住吉中)とは異なる楽曲です。以下、こちらを指す場合は【伊角名義】とします。
鈴村健一名義の「ひとつ」は、〈Live Tour 2014 VESSEL〉2014/09/20 香川・高松オリーブホール公演で初披露され、ツアー全9公演、〈満天LIVE 2015 luna〉および〈sol〉、〈満天LIVE2016〉の2DAYSで披露されたものです。2014年ツアーのDVD/Blu-ray、満天LIVE2015のDVD/Blu-rayにのみ収録されています。CD音源化はされておらず、また、「Original Entertainment Paradise(通称:おれパラ)」等の対バン・フェス系のライブでも歌われたことはありません。ソロライブでのみ(しかも現時点ではソロライブでは例外なく)歌唱されてきました。作詞を担当したのは鈴村健一本人であることが、ツアー中のMCその他で語られています。
(以上追記終了)
ここで触れておきたいのは、株式会社ランティスが自社の所属アーティスト「鈴村健一」に対して、特に2014年近辺に何を起こしてきたか、という話です。
2014年、3rdフルアルバム『VESSEL』発売時、こんなことがありました。
鈴村健一「VESSEL」商品封入のライブ先行チラシにつきまして | News | Lantis web site (リンク先本文削除済み?)
鈴村健一「VESSEL」商品封入ライブ先行チラシ当落結果、入金期間変更のお知らせ | News | Lantis web site
封入された先行申し込み用のチラシの一部に、シリアル番号が印字されないものがあったとのこと。
そして、その『VESSEL』ツアーのDVD/Blu-rayでは……
4月15日発売 鈴村健一「Live Tour2014 VESSEL」BD/DVD INDEX表記誤植のお知らせとお詫び | News | Lantis web site
鈴村健一「Live Tour2014 VESSEL」BD/DVDの商品に関しまして、
バックジャケットのINDEXに不備があることが判明いたしました。
そしてそして、まさにそのVESSELツアーで初めて使用された「ひとつ」に関する楽曲管理ミス……。
さすがに3件も重なってくると、2014年近辺での鈴村健一さんに対する扱いがよっぽどずさんだった印象がぬぐえません。
「手を抜くな!」とか、「アーティストをバカにしてる!」とか、そういう批判めいた話にはすべきではないと思いますし、私自身、したくもありません。どんな人も、どんな組織も、やらかしてしまう時はあるものだという立場に私は立ちたいです……たとえそれが良くないこと、組織として本来ありえない大ミスであったとしてもです。
一方で、このようなミスが3件も*3重なるというのは、〈スタッフが相互に仕事をチェックしフォローし合うという体制がランティスという会社には存在しない〉という、ひとつの証拠のように私には思えてなりません。
こうして過去のミスがきわめて手痛い形で発覚した以上、2014年当時の、必要であればそれ以前までさかのぼり、次なるミスがないよう、然るべき検証と対処を行ってほしい、と、切に願います。