『薄桜鬼』で悟った、乙女ゲームの音声に関するあれこれと、ちょっとだけ『真紅の焔』の話
なにか書きたくても、そのサムシングがなくってなあー。
というわけで、仕事の隙間時間を埋めるために、とりあえず書き始めます。あ、待ち時間が発生しているだけであって、これはサボりではないんでございますよ。
何がいいかなあ。…乙女ゲームですかね?
わりとちょいちょい乙女ゲームのエントリを起こしておいてアレですが、私個人は、乙女ゲームたるコンテンツをさほど心の「好きなもの」棚には置いていません。触れる機会はやたら作りますし、物語として面白がっていますが、ゲームすなわちインタラクティブ性を主軸にしたマルチメディアコンテンツとしては、さほど上位に食い込みません。電子式リッチ紙芝居という感覚で眺めているわけですね。好きなゲームはローグライクとハクスラです。
さて、そんな乙女ゲームあれこれにおいて、私が超・強烈に「こいつぁヤベエ、乙女ゲームとはとんでもないかもしれんぞ」と思わされたのが、かの有名な『薄桜鬼』、正確にはそのPSP版です。
この「PSP版です」という付言はとても重要でして、もしも私が最初に触れた『薄桜鬼』がPS2版であったなら、おそらくこの感想はなかったことでしょう。
その感想の根拠は、土方歳三(CV.三木眞一郎)ルートにあります。もう正確な場面はちょっと失念しましたが、土方がとてもとても低い、音量の小さい声で何事かをつぶやく、という場面がありました。*1
そのとき、イヤホンでプレイしていた私は、ぐっと息を詰め、耳をすます、ということをしました。そして、この行動を取らされたことそれ自体が、「あっ、とんでもないぞ?」という感想に直結しました。
恋しい相手のつぶやきに耳をすます、というアクションにおいて、主人公とプレイヤーが完全同期する、というのがこの演出の素晴らしい点なのですが、それ以前に、耳をすましてもなお聞き取れるかどうか、という音声が、作品=製品において許容されていることも無視できないポイントです。なぜそんなにマスターのボリュームが小さくてもよかったのか?
その理由は、「文字でもセリフが表現されているから」に他なりません。そのセリフを支えるのは音声だけではない、ということ。
そもそも論として、「文字と音の同期が強く保証される」コンテンツというのは意外と少数派です。アニメやドラマCDは音がメインであって文字が付随しません。音楽CDのパッケージにブックレットが同梱されていたって、同期の保証はありません。歌詞を読まずに聴くときだって多いですもの。歌詞が表示されるカラオケにしたって、自分で歌うことでようやく同期されるものです。
音声に対して文字が「ほぼ必ず」付随してくる、いえ、それさえ越えて、無音環境においては文字のみにさえなる、という、この「同期保証」の構図が何を生むか? それこそが、「聞き取れなくていい」音声の成立なのですよね!
文字の情報が読み取りや聞き取りを補助してくれるのであれば、音声はどんどんとその輪郭を失っていけます。「聞き取らせなければならない、耳で一度聞いただけでわかってもらわなければならない」という制約を取っ払えば、テンポどころか、音量も、発音さえも、もっともっと広大な幅をもってしまって構わないわけです。*2
ノベルゲームならではのこの特性を、おそらく『薄桜鬼』はよく承知していたのでしょう。
『薄桜鬼』に限らず、多くの乙女ゲームは、「BGMと効果音と音声のボリュームをそれぞれ個別に設定」「キャラクター別に音声をON/OFFする・音量を変更」など、音声周りのカスタマイズを充実させましたし、バイノーラル録音を利用した作品もいくつも生まれてきました。
しかし、こと「音声の輪郭のハンドリング」という点において、『薄桜鬼』ほど攻めている作品は結果的にあんまり出会っていません。もちろん、私個人の些少な経験においては、でありますし、いくつかは近い印象を持っている例があります。
その数少ない例のひとつが、『薄桜鬼』と同じく藤澤経清さんがプロデューサーを務めた『真紅の焔 真田忍法帳』、より正確には、そのうちの一人である真田信繁(CV.諏訪部順一)でございます!
や、ほんとね、信繁様は、本当にすごいです。こんなに「最終的な仕上がり」についてきわめて自覚的に、しかも攻めッ攻めなディレクションで組み上がっているキャラクターには久しぶりに出会いました。ディレクター側、キャスト側、どちらがより主体を担っているかは消費者側からでは確定しようもないことですが、他のキャラクター達にその気配が強くない*3以上、担当なさった諏訪部さんのハンドリングの影響は大きいのでしょう。
……というわけで、『薄桜鬼』ともどもに『真紅の焔』を褒めるエントリでした!
もちろん仕事の隙間時間には到底書き終わらなかったですよ!