読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

歌手・鈴村健一は合体後の姿です - 総体としての鈴村健一論

前置きとして。
aikoに関するあるエントリ(スタバでaikoを聴いていたら隣にaiko的世界が生まれていた - 真顔日記)に触発されたことをまず白状したい。わたしはaikoの曲は何曲かを聞き知っているだけで、それを保有したことはなく、なので、aikoに対して特別な思いを持っていない*1

けれど、それに類するというか、ベクトルは違ってもスカラー量は似ていそうな思いを抱いている相手はいる。

それが、鈴村健一という歌手だ。

というわけで、わたしはあのエントリの文章に嫉妬をしたので、鈴村健一という歌手の話をする。


「歌手の」「歌手の」とくり返すのは、彼がそのメインの活動を「声優」においているからだ。世間一般的にも、鈴村健一といえば、まず声優としての彼の活躍が連想されるはずだ。もちろんその軸足の所在はとても重要なのだけれど、今はまず、歌手としての鈴村健一の話からする。声優としての鈴村健一は、まずは一旦さておいて。


特に2017年1月時点での最新シングルを基盤として話すのがわかりやすいので、そこから始めたい。

鈴村健一の最新シングル『HIDE-AND-SEEK』は、その表題曲「HIDE-AND-SEEK」と、カップリング曲「ポーカーフェイス」の2曲を収録した盤で、TVアニメ『はんだくん』とのタイアップシングル*2でもある。つまりこれは、「HIDE-AND-SEEK」という楽曲(の特に歌詞)が『はんだくん』とよりそって*3書かれたことを意味する。


ここから各曲について。

「HIDE-AND-SEEK*4」における世界では、主人公(仮にハイド君)は人の視線から逃げている。探されたり、見つめられたりはノーサンキュー。目を合わせるなんてもってのほか。でも内心では〈みんなで笑ったりしたい〉と、漠然としたポジティブな憧れをもっている。なお、笑うほかに何をしたいのかはこの時点では定まっていない。

 直接は関係ないけれど、テレビアニメ『監獄学園』の第1話で、キヨシのセリフが微妙に改変された中に、「俺はもっと女子と、もっといろいろ……なんかいろいろしたいんだ!」がある。原作に比べて闇雲さがてんこ盛りになっていて、男子高校生の荒唐無稽な妄想の存在が匂い立つ。横手美智子さんによる名改変だと思います!


話がそれた。

まあつまり、ハイド君は、具体的に何がどう…ということはわからないなりに、「みんな」に加わることを願っている人だということだ。俗な表現にすると、リア充になりたいコミュ障と言える。

リア充への憧れを叶える第一歩として、ハイド君は「もういいかい」と呼ぶ声に「もういいよ」と応えることから始めようとしている。顔を合わせることは無理だけど、定型文で応えるぐらいならなんとか……という、これはもう相当奥手な主人公像だ。なんなら「オクテ」と書いてもいいくらい。


ところが、その裏面(という言い方も今では相当古い言い方なのだけど)の楽曲「ポーカーフェイス」では一転して、主人公は相手をガン見している。
表情を〈言葉よりもピュアな〉ものとして位置付け、〈目をそらさず〉、視線を相手に向け続けている。なんなら「相手」はその口調からして女性らしいので、どうやら恋人までいる。ハイド君が〈君と目を合わせることすらできな〉かったのとは大違いだ。

〈「嘘くさいよ」って ちゃかしすぎちゃ〉うこともあるぐらいなので、きっと圧倒的にコミュニケーション強者に違いない。「ちゃかす」なんて高等技能、コミュ障が使えるわけはないのだからして。最後には、あ、ああ……〈愛〉とか言いはじめますし??

ということは、この2人の主人公は別人、と言ってさしつかえない。もしかすると時間軸の異なる同一人物、という可能性はあるが、それにしたって、ほぼ別人だと言ってもいいはずである。なんなら声だって違うかもしれない*5。というわけで、「ポーカーフェイス」の主人公は仮にフェイス君と呼ぶ。

もし仮に、ハイド君とフェイス君が出会ったとしたら、ハイド君がとにかく避けようとしている視線を、フェイス君は突き刺そうとするだろう。「視線(視覚)」という点において、この2人は思い切りすれ違っているのだから。
ハイド君が勇気を振り絞って口に出す定型文の声も、フェイス君は「それより顔見せろや」ぐらいの勢いで脇に置いてしまうに違いない。鬼だ(かくれんぼ的な意味で)。

もちろん、両曲とも鈴村健一が作詞し、歌ってもいるので、ハイド君もフェイス君も、鈴村健一が生み出し、表現した人格だ。
それなのに、ハイド君とフェイス君は別人であり、互いにわかり合えない。視覚を拒絶し、せめて聴覚に訴えることから始めようとするハイド君に対して、視覚ばかりを振り向けるフェイス君はある種、残酷ですらある。



でね、ここからが歌手・鈴村健一の面白くってややこしいところだとわたしは思っているんですけど。

この仮称・ハイド君とフェイス君は、実はジャケットに登場している。顔を出しているのがフェイス君(演:鈴村健一)で、裏側に頭から逃げ込んでいるのがハイド君(演:鈴村健一)だ。

つまり、ここで起こっているのは、役者・鈴村健一による芝居なのだ。ハイド君を演じる鈴村健一と、フェイス君を演じる鈴村健一がいて、それは映像(写真も映像に含まれる)の中では同時並行的に存在している。


メインの活動が声優――役者である鈴村健一にとって、歌の人格が“まごうことなき”自分自身である必然性はきっとそこまで高くないのだろう。ならば、自分の中にあるいくつもの「言い分」をそれぞれキャラクターにして、楽曲の中に独立させてしまって構わない。役者・鈴村健一は、その楽曲ごとにハイド君になり、フェイス君になる。もっと多彩な人物にも、時には犬にだって。


そうやって一旦解体し、輪郭を確かめた人格――すなわち楽曲たちを、自ら歌うことでふたたび自分自身に引き取っていく試みこそが、総体としての「歌手・鈴村健一」なのだとわたしは解釈する。それはいわば、歌唱と身体(写真)によるアウフヘーベンだ。

「歌手・鈴村健一」はすでに合体を済ませた姿なのだ。


このように、別個のパーソナリティとして仕立てた心を、自分自身の身体と声で引き取って、総体としての「鈴村健一」を表現する、という《解体・再構築》の流れは、鈴村健一の「いつものやり方」でもある。「INTENTION TOUR」の映像パッケージでも、多くのライブのパンフレットでも、鈴村健一は自分の像を一画面にいくつも並べて提示してきた。


このようなバランス感覚は、かつてミニアルバム『互』で試みられ、シングル「All right」「brand new」などに顕著に見られるものでもある。
「何かひとつ極端なことを言ったからには、それにカウンターを喰らわせずにはいられない」……というのが鈴村健一のかねてからのくせ*6だった。
そのカウンターの存在は、あくまでも「総体」としてのアイデンティティの獲得や、言葉の脱構築*7に貢献していると言える。

絶え間ない自分自身への“うたぐり”、「本当にそうか? 別の見方もあるんじゃないか?」という問いかけは、時に、一見すると矛盾する表現に着地していってしまう。
鈴村健一は、その矛盾を個別の人格(楽曲)に結実させて解消する代わりに、一曲一曲を自ら、誠実に歌い上げることによってもう一度まとめあげ、その自己矛盾すら〈正解〉として、全面的に肯定してきたのだ。


そして、この構図は、ひとつの可能性――希望を内包することができる。

それは、「歌手・鈴村健一」は、ある瞬間にハイド君であり、ある瞬間にフェイス君であり――ある瞬間には「わたし」だ、という希望だ。

aikoを聴く人がほとんどaikoであるのとは対照的に、鈴村健一はときに「わたし」なのである。だからこそ、彼の歌う楽曲はある時、ある場所、ある場面で強烈に、とても個人的な想いを伴って、身体にしみ込んでいくようにわたしには感じられるのだった。


……なんてことをまとめようと思っていたら、新しいミニアルバム『NAKED MAN』のリード曲「NAKED MAN」には、〈重ね着しすぎた僕のために〉というフレーズが含まれておりましてですね、自らの多重性についての自覚とか、それを適宜リセットしていく感覚とかに、ああもう負けました……と思ったのでした。*8

発売を楽しみにしております。


www.youtube.com

以下余談。

上の「NAKED MAN」のMusic Clipは、画角4:3、映像も一旦VHSに落としてからデジタルに移し直しているそうだ*9。かつ、全メンバーが過剰なウィッグと衣装。

この映像の意図はおそらく、「カメラが1970年代に存在する」(=観測者が1970年代に生きる人である)ということだろう。DEEP PURPLEを思い出しましたし。もうちょっときっちり決め込めば、1974年9月あたりになるかもしれない。鈴村健一氏の生年月日あたりに。

そして、その『観測者』からすると、彼らはあのような〈重ね着しすぎた〉姿に見えてしまう…… とか、そんな感じかもしれませんね。そこまではまだ全編を観ていないのでわからないですけれど。

どうなんでしょうね。

*1:くだんのエントリ風にいうと、わたしはあまりaikoではない

*2:「あすなろ」「シロイカラス」に続き、アニメとしては3枚目のタイアップとなる

*3:≠影響下で

*4:HIDE-AND-SEEKとは「かくれんぼ」のことで、歌詞中にも「もういいかい」「もういいよ」のフレーズが何度となく繰り返されている。また、これは筆記上は一重カギにくくられているので、歌中の世界で発声されている言葉でもある。

*5:アニメ『はんだくん』とアニメ『ばらかもん』の関係からいっても

*6:このあたりについては、津田健次郎 責任編集『EDGE』でのインタビューにおいて、「バランス」という表現で明瞭に語られている。

*7:ある歌では「Aである」と歌い、ある歌では「Aでない」と歌うために、表現の上では矛盾するが、それを歌唱によって総体の側に引き取ることによって、意味としての矛盾を解消している例が散見される。

*8:ところで、このフレーズ自体は福本伸行『天 -天和通りの快男児』における、「成功を積みすぎると満足に動けない」に相通ずるものがありますね。かの作品では「成功」でしたが、「NAKED MAN」では〈重ね着〉すなわちファッションであり、他者からの視線と関わるもの、「観測される自分」と不可分である点が大きな違いと言えます。

*9:2016年12月24日「Original Entertainment Paradise 2016」両国公演1日目MCより。