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二次創作活動と同人誌即売会のあれやこれに思う「やさしい世界」

5月13日から15日までの3日間、声を張り上げ続けて喉がマッハ。


その間、ホッテントリに「同人やめました」なる記事が入ってきていた。

同人やめました - おとなになりたくなかった

一年前に書かれた記事だけれども、とてもいろいろなことを思わせる記事で、何度も読みふけっている。


特にコメント欄でブログ主は、

未だに自分の作品が誰からも必要とされていないのではと思うと作品を作る気力が湧きません。
売れなくても好きなものを好きなように描いていた頃に戻りたいです。

と残しており、このくだりはなんとも胸に刺さるものがある。


「必要とされていない→作品を作る気力がない」
「売れなくても好きなように描いていた」が両立しているということは、

「どこかの誰かが必要としてくれているという希望があるから、好きなものを好きなように描けていた」という構図が見えてくる。
その次のコメントには、

あんなに一生懸命描いたのに、まだダメなのか…と、引退する一年前くらいからイベントに出るたびに打ちのめされていました。

ともある。「まだダメ」ということが何を指しているのかは不明瞭だけれど、おそらく気にしているのは「売上*1」だろう。

ブログ主が希望を見出していた「二次創作活動と同人誌即売会」の世界には、いまや絶望しかない、という叫びがあふれている。


……と、ここまでこう書いてきてしまうと、まるでブログ主の心理をばっさり切りたくて書いているかのようだけれど、本稿の趣旨はそういうことではない。

ここで取り扱いたいのは、「二次創作活動とそれに付随する同人誌即売会は、きわめて繊細な欲望の両立に寄り添っているんだな……」というある種の感慨の念だ。


なお、私も二次創作活動をする。それも、ほとんど自分のためだけにする。どういうことかというと、「ある作品を読む→見えてくる風景がもっと精密に見たくなる→公式から供給されることはありえない→己で書くしかないから書く」という流れで、自分が読んでしまえば満足するので、結局それが表に出ていくことはない。

けれど個人サイトの全盛期、それを不意に「やってみようかな」と思い、個人サイトを作った。扱う作品はひとつのみで、それ以外は基本的には何も載せなかった。閲覧者は作品に興味があるのであって、"私"に興味があるわけではないから、複数作品をまたいでもノイズになるだけだと思った。

最初の時点でいくつかの作品を並べ、あるサーチ*2に登録した。3日に一度は更新もしていた。更新のたびにごく短い二次創作を書き下ろし、その数は100を超えた。その間に長編も載せていた。未完放置は大嫌いなので、完結したものしか載せなかった。最終的には数万字を超える、テキストとしては長めのものもいくつかあった。

Web拍手も設置してみた。ごくたまに感想が届き、舞い上がるほど喜んだ。必ず返事を書いた――あれ以来、「拍手返礼」が義務感からのものではないと知った。嬉しくて、なんとかお返しをしたくてするのだ。まあ、悪意のあるコメントが送られてこない程度の小さいサイトだったからだろう。

ただし、一度も同人誌即売会へのサークル参加には踏み切らなかった。ひとつには、「交流したくない」という欲があったし、もう一つには、「この文章は私にとっては必要なものだったが、他の人にとってはおそらくそうではないだろう」と思ったからだ。

自分ではそれなりの分量の文字を書き連ねておいて言えたことではないが、合わない相手の文章を読むのはたまらなく苦痛である。私は同人誌即売会ではめったに小説に手を出さない。自分にとってのはずれ率が高すぎる。


今ではそのWebサイトは開店休業状態である。なにせ、その作品を書かなくなってしまった*3。今でもちまちま別作品は書いているが、それは持って行き場がないものであり、PCの中で私だけが読み返すものになっている。

それでもまれに、「これは公開してみようかな」と思うものがあって、Pixivにアップしてみたりもする。旬のジャンルを追っているわけではないし、交流も持っていないが、ブクマや評価がつくと嬉しい。ある作品だけは意外なほどにブクマが付いて、とても驚いた。嬉しかったから、つい調子にのって続編を書こうとしてみてしまった。結局いい形にならなくて、それはやめてしまったけれど。


そんな行為をしたことがあるから、評価や感想の効能――毒は知っているつもりである。



閑話休題、「やさしい世界」について。
自分が力と時間と心を割いて作り上げた「同人誌*4」が誰かに手に取ってもらえ、しかもそこに金銭を支払ってもらえるというのは、ある種の「肯定」「報われ」として作用しただろう、と思う。

その先に――くり返すがその"先"に――穏やかな交流や深い作品考察の交換の可能性がある。同人誌を手に取ってもらえることはゲートなのだろう。手に取って、金銭を支払ってもらえたことで、心のゲートを一段階開くような。

即売会にある(ブログ主が懐古するのに合わせるなら『あった』)「やさしさ」とは、好意や親愛の代替のように私には思える。

「義理で感想を言うのが苦痛」「本音が分からず人間不信ぎみに」などなど、コミュニケーションの断絶の言葉と、「結局交流上手な方が売れる」「売上は他所に遠く及ばない」など、自分と他人を比較し、売上を気にする言葉が併存するのは、その二つが機能的に隣接しているからなのだろう。


TwitterとPixivの台頭で可視化された世界は光が強すぎて、まるで隅々まで見渡せるような気がしてしまうだろう。自分がそこを閲覧する時には膨大な数の作品が一望できているように見えるから。

見える側の感覚で見られる側に立つと、あまりにも自分が見られていないように感じるだろう。

けれど実は、ほんとうは、そうでもない。

例えば電子書籍の世界では「検索という能動的行為では、出会えるものに限りがある」というのが今や常識となりつつある。探せないものは売れない、だからまずは知られなくては、というのがセオリーだ。

そんな例を出したってなんの慰めにもならないだろうけれど、思った以上に、感じている以上に、我々は「そもそも見られていない」。だから、「見られたのに手に取ってもらえない」と感じたとしたら、それはきっと錯覚だ。

世界は相変わらず薄暗く、まだ出会っていない人は山ほどいる。
TwitterとPixivの照らした地平など、大したことはない。


ブログ主が同人誌即売会に見出した希望は、その影が薄くなってしまっただけだ。
その希望はきっとまだそこにあるはずだと私は思う。

例えば日本最大の同人誌即売会コミックマーケットでは、一日に10万人以上の人が訪れるという。そのうちの数人程度すらも自分のことを知らないとしたら、それはとても恵まれた――希望があることだろう。

*1:もしかすると、この言葉は同人誌原理主義的にはなじまないのかもしれない。同人誌即売会では「販売」を用いず、「頒布」を用いるくらいだから

*2:サイトの傾向をタグ等で示した登録型リンク集のこと

*3:本当はまだ書いている。完結していないから出さないだけだ

*4:手に取れる物体であることはそれなりに重要である