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探してます、数学の言葉づかいを教えてくれる本

数学に関する話題がホットだったので、普段思っていることを、20分ぐらいを目標に書く。

かつて、学校で「図は言語である」ということを叩きこまれた身としては、数式が言語なのはもう当然であり、とにかく誤読がありえないという意味では、数式以上の世界共通言語はそうそうなかろうと思われる。解釈のぶれがあるようなものは数式ではないのだ*1

ので、その読解方法さえ学んでしまえば、誰でも――どこの誰でも読めるという意味で、「数式アレルギー」というのはなかなか雑な物言いではあると思う。「生理的に無理」という無敵の言い訳と大して変わらないからね。


ところで、「数学の言葉づかい」というやつがあるじゃないですか、ねえ。文章題の文体のことではなく、「~とおく」「を求める」など、そういう類の。

例えば、問題を解く最中に、こんなことを思う。

x^2をtとおく。0≦x≦2のときのtの範囲を求める。

……「求める」でいいのだろうか? 「調べる」? 「確認する」? 「のとき、tの範囲は~」と一続きにしたほうがよいのか?

このあたりの妥当な言葉づかいを整理してくれる書籍というのはないのだろうか、というのがここ最近のぼんやりした悩みである。「同様に確からしい」などの数学方言とはまた別種のものなんじゃないかという気がして、なかなか攻めあぐねているところだ。(以上20分)

*1:このあたりを深堀りして、形式言語に関する話をはじめると脇道にそれてしまう。プログラム言語なども読み手による解釈のぶれはほぼないことになっていたりする……たぶん。コンパイラによる解釈違いとかもあるのかもしれない。

「独身の人って生きがい何なの?」の文章が凄い

anond.hatelabo.jp

この文章を読んで私が感じたことは、文章の巧さだった。けだし名文。巧みすぎて、釣りくささすら感じた*1し、これが釣り(=フィクションないしは表現に重きを置いた創作の文章)だとしたなら、書き手はたいへんに優れた感性の持ち主だと思う。作家としてもやっていけるんじゃないかとすら思えるくらい。
それくらい、この文章は内容と印象が乖離している*2


以下はすべてno offenseで、文章の構造や単語選びについてだけ話す。


まず前提として、文章においては"文章の意味"と"表現の選択が伝える雰囲気・印象"はまったくの別物である。ここが了解されないとけっこうめんどくさいことになるので、クドクドとくり返すけれど、「伝える内容と、伝わる印象は別である」。

内容に関して、あの文章に悪意はない。まったくない。むしろ無邪気で、素朴だと思う。誤解の余地がない程度にはじゅうぶん整理できているように思えるし、変な解釈のまぎれも起こさないはずだ。

ただし、伝わる印象は悪い。びっくりするほど悪い。表現のチョイスが軒並み印象を悪くする方向に作用している。


ここからは引用しつつ。まずは最初のブロックから。

で、思ったんだけど例えば30.40で独身の人って生きがいなんなの?仕事とか趣味?

  • タメ口風の遠慮のない質問の仕方をしている
  • 「30.40で独身」という、場合によっては一種の社会的弱者と見なされる属性を引き合いに出す
    • 「こういう属性の人って生きがいなさそう」と思っているように読める
  • 「仕事・趣味」を例示することによって、「自分は仕事も趣味も生きがいではない」ことを暗に示している
    • もしかしたら、仕事もしてなければ趣味もないかもしれないと思わせる
  • 「仕事・趣味」に「?」をつけることによって、「仕事や趣味が生きがいである」ことに疑義を挟む

……こうやって分解してみて、改めてそのスタイリッシュさに惚れ惚れしてしまう(no offense)。


次は追記から。

私の場合は、趣味も知的好奇心も友達も親も彼氏も社会的な成功も、生きることがそれなりに楽しい理由にはなったけど、絶対的な生きる理由にはならなかった。

  • 「趣味をまっとうできた・知的好奇心を満たせた・友達がいた・良い親がいた・恋人がいた・社会的に成功した」ことを一気に宣言している
    • もちろん苦労もあったのだろうけど、上記6種を「総合的に良いものと捉えている」程度には問題が少なかったことがうかがえる

おっちょっとこれは辛いなって心が折れそうになるときもある

  • 「ちょっとこれは辛い」と「心が折れそう」を連結することで、結果的に「心が折れる」ことを軽く扱っている
    • 実際にべきべきに心がへし折れた経験がないと思わせる

ゼロな自分がもし明日不慮の事故で死んでもそれは別にもったいなくはない

  • 上記と関連して。自分を「ゼロ」と表現することによって、「趣味~社会的な成功」を得ていない人を「マイナス」まで暗黙におとしめている


さらに追・追記から。追・追記はさらに口語的なスタイルでまとめられていて、ほんとうに見事。

私は、あくまでも私の個人的な見解だから怒らないで聞いてね、

  • 「個人的な見解だから」「怒らないで」という、論理的には筋のない連結によって甘えを感じさせる
  • 「聞いて」という、文章に対しては通常もちいない表現
  • 「ね」という語尾に甘えを含んだお願いのニュアンスがある
    • ネットの向こうの顔も知らない読み手に対しての甘えは、「誰に対してもいつもこうなのだろう」と思わせる

ここのフレーズには舌を巻いた。「なーにが『怒らないで』だ(笑)」ぐらいの感覚になってしまった。このフレーズに敗北したので、こんな記事を書いてる。

私的には一人で生きていくのって結構大変で、だから独身の人って結構辛いんじゃないかなって想像するんだけど、

  • 「想像する」という表現から、隣人が自分と同じ感性であることしか想像していないことになる
    • つまり、感性が異なる人間がいることをそもそも想定していない表現になっている
      • 例えば「独身の人は辛いんじゃないかなとつい思ってしまうんだけど」なら少しは緩む(少ししか緩まない)


また、単語のバックグラウンドというか、単語自体の雰囲気もすごく効果的に用いている。代表的なのは「ママ」「BBQ」「タワマン」「カンファレンス」*3


本当に、言葉の力というのはすごいものだ。面白かった。なお、私の生きがいは文章を読むことです。

*1:釣り要素として「結婚して一年が過ぎた20代後半」と「何でそんな若くで結婚したの?」の両立がある。20代後半近くでの結婚は「そんな若く」ではないのでは。

*2:ブコメやトラバでの反応が割れているように見えるのは、内容に反応する人と、印象に反応する人の差だと思う。

*3:「カンファレンス」は若干やりすぎ感がある。

DIABOLIK LOVERSの救済の仕組み ~ 歌詞から読み解く解釈の差の実例集

「iD BEST」までにどこまで岩Dについて書けるかなあ。宣伝したいんですが。


Rejet岩崎大介の愛と暴力 ~ DIABOLIK LOVERSにおける救済の仕組み - talkoのブ()ログという記事を先日書き、そこで、「聴覚情報=声と、視覚情報=文字をルビで並列化し、発信者と受信者の意識のずれを浮き彫りにする」手法について触れたので、その実例をここでは収集しようと思う。

なお、ルビが当てられている箇所を網羅するのではなく、特に、ヴァンパイアと人間の解釈の差を表現するための個所を抜粋する。*1

対象はさしあたり、「SUPER BEST」収録の楽曲まで。特に興味を惹かれたものについてはコメントを付記する。
では、以下スタート。

「真夜中の饗宴」逆巻アヤト(CV.緑川光)、逆巻シュウ(CV.鳥海浩輔)、逆巻スバル(CV.近藤隆

《じぶん》〈本性〉
《いたみ》〈愛〉
《ためらいがち》〈他人行儀〉
《きおく》〈景色〉

  • 声の方が抽象度が高い例。相手の記憶はどうやっても覗き見ることができないゆえに、表層的な理解にとどまってしまっている表現と解釈できる。
「ADDICTED (2) PHANTOM」逆巻アヤト(CV.緑川光

《おもい》〈渇望〉
《ねがい》〈絶望〉
《こえ》〈悲鳴〉
《MEMORY》〈執着〉
《ラビリンス》〈世界〉
《すがた》〈幻想〉

  • 乖離が激しい。ここまでの誤解を実際の恋愛でしていたなら遠からず破局しそう。
「切断★舞踏会」逆巻カナト(CV.梶裕貴

《ねいろ》〈悲鳴〉
《したい》〈男〉
《せかい》〈現実〉
《オワリ》〈終演〉

  • 「終演」という表現はより正確な理解なのか、表層的な理解に基づく誤解なのか。前者であれば、カナトの錯誤を看破したことになるし、後者であれば、カナトの絶望を理解できないユイの姿が見えることになる。
「血濡れた密会」逆巻ライト(CV.平川大輔

《いま》〈常識〉
《シロップ》〈血〉
《モラル》〈品位〉

  • モラルとは本来「倫理、道徳」の意味。ライトの意図するところは「動物になれよ」ぐらい根本的なことなのだが、それを「品位」と解釈してしまうことによって、むしろ誤解しているところが面白い。品位を失う程度では人間のままでいられるからね。

《マンホール》〈◎〉

「ZERO」逆巻スバル(CV.近藤隆

《ヒヨって》〈畏怖って〉
《ちから》〈永遠〉
《フィルター》〈網膜〉
《しはい》〈征服〉
《くつじょく》〈痴態〉

  • かなり繊細な例だが、「怒り」と「恥」の対比が面白いので抜粋。

《うたれ》〈支配たれ〉

Farewell Song」逆巻シュウ(CV.鳥海浩輔

《もの》〈悲鳴〉

  • 逆巻家の長子・シュウがほぼ唯一見せる解釈の差がここ。この一点がなければ婉曲的な表現でまとまっている。逆に言えば、この一か所だけで光景がかなり強烈に凄惨な側に突き落とされておりまして、とても効果的だなと思う次第。
「とある預言者の、運命」逆巻レイジ(CV.小西克幸

《うやまう》〈溺愛う〉
《ざわめき》〈祈祷〉
《りせい》〈規則〉
《のうり》〈野原〉

  • 悩ましい解釈違い。この曲においては、文字列=歌詞は視覚情報であると同時に、視覚情報が文字列化されたものとなっている。つまり、歌詞の文字列自体はとても視覚的にまとまっていて、反面、歌詞の読み方は意味的に(あるいはレイジの考えそのままに)まとめられているのだろうと思う。
「幻日理論 -Parhelion Logic-」逆巻アヤト(CV.緑川光

《ナイフ》〈理論〉
《ひかり》〈罪〉
《ウソ》〈確信〉

  • この例を見るに、アヤトとユイ(主人公)のすれ違いは他のメンバーに比べて甚だしい。主人公がどれだけの確信を抱き、必死に訴えても、アヤトにとっては嘘としか映らないことになる。

《なくなる》〈自虐る〉
《げんじつ》〈幻日〉
《きぼう》〈灯〉

「極限BLOOD」逆巻アヤト(CV.緑川光)、逆巻シュウ(CV.鳥海浩輔)、逆巻スバル(CV.近藤隆

《クスリ》〈血〉

  • 血を何か別物に解釈することにかけては他の追随を許さない「DIABOLIK LOVERS」だけれど、なかでも「薬」はかなり踏み込んでいると思う。

《じぶん》〈夢魔
《うるおい》〈満足〉
《ねがい》〈嘘〉
《こたえ》〈真実〉
《オマエ》〈Ghoul〉
《あかし》〈傷痕〉

  • 《いたみ》を〈愛〉とした「真夜中の饗宴」の構造とは解釈が逆転している点がポイント。ユイの認識が「愛情を実感する前」まで巻き戻っているとも言える。前述の《ねがい》〈嘘〉も同様で、ヴァンパイア側が都合よく解釈している表現。

《ナミダ》〈自虐〉

「月蝕」無神コウ(CV.木村良平)、無神ユーマ(CV.鈴木達央)、無神アズサ(CV.岸尾だいすけ

《じぶん》〈人形〉
《わたし》〈月〉

  • 本当はここに抜粋するのは間違っているのだが、好きなので抜いちゃう(すいません)。ここでの《わたし》とそれを〈月〉に喩えているのは同一人物だ(そうでないと続く歌詞の〈貴方は蝕〉を受けられないので)。月蝕の構造上、「太陽‐地球‐月」の並びが想起されるのであり、だとすると、太陽は何か、地球(=蝕の原因)は何か? いや、そもそも《わたし》は誰か? 歌詞中にある〈貴方〉の表記、その属性として女性を帯びる月というモチーフから推測するに……

《おもいやり》〈自尊心〉
《STORY》〈都合主義〉
《ほしがってる》〈支配がってる〉
《おもいで》〈傷痕〉



……だいたいこんなところでしょうか。「SUPER BEST II」収録楽曲についてはまた次の機会で。

*1:例えば、「とある預言者の、運命」における《シュヴァルトヴァルト》→〈黒い森〉などは、解釈の差というよりは単に意識の差を翻訳した例と思われるので除外する。

即興劇「AD-LIVE2016」の出演者発表についての雑感

2017/06/13追記 この記事は2016年版の記事です。2017年版の記事はこちらです。



ちょっと日数開いちゃいました。
あんまり時間もないので、手短に書かせてください。細部はあらいんだ、申し訳ない。



さて、即興劇「AD-LIVE」の出演者が発表になりました。

AD-LIVE(アドリブ) 2017 - AD-LIVE Project

ここまで皆勤賞だった、櫻井孝宏さん、岩田光央さんの出演はなしという思い切った人選はあったものの、個人的には「大筋予想通り」でした。
特に、継続組 and 新人(復帰)組の図式が明らかなのはわかりやすいところです。


というのは、AD-LIVEの舞台においては「AD-LIVE初体験者のみでマッチングすることは極力しない」という不文律があるようでして、昨年、AD-LIVE2015においては、全公演に鈴村健一さんが自ら参戦するということでそのあたりをクリアーしていたからですね。

暫定的に、役割:レシーバーというものがあると仮定すると、AD-LIVE2015においてのレシーバーはまず鈴村健一さん。そして各公演としては、櫻井孝宏さん(対 津田健次郎さん)、岩田光央さん(対 浪川大輔さん)、梶裕貴さん(対 名塚佳織さん)、福山潤さん(対 下野紘さん)となるでしょう。

ありていに言ってしまうと、AD-LIVEの舞台を物語として成立させるためには、経験者によるアシストがあったほうがよい、という判断が働いていそうだ……ということです。

これは、2014年公演において、鈴村さん・櫻井さん・岩田さんの3人のうち、常にだれかひとりは舞台に立っていたことからも補強できそうな仮説です。

そんなわけで、AD-LIVE2015において、レシーバーとしての経験蓄積をしていたであろう梶さん、福山さんの継続出演は順当なところ。そこに小野賢章さんと釘宮理恵さんという、「初体験者同士で2公演プレイした」2人が継続出演、さらに、最強の必殺技:即興ソングを持つ下野紘さんが継続出演ということで、狙いとしては、「これからもっとAD-LIVEであれこれやりたいので、レシーバーができる人をばしばし増やしたいよね!」という印象を受けています。

森久保祥太郎さんの復帰をはじめ、寺島拓篤さん・中村悠一さんの参加も同様の印象です。特に寺島拓篤さんは来年度も継続して登場しそうなところ。期待がかかりますね。

もちろん、舞台経験豊富な浅沼晋太郎さんの参加も欠かすことはできません。演出面での参加のみならず、鈴村さんの初日参加と対になる最終日参加なのも趣深い。このあたりは、「AD-LIVEの脚本構造・イベントのトリガーを誰が引くのか」みたいなところとちょっとかかわるところです。脚本構造について書く機会がきたら、改めて少し触れます。


「あれこれやりたい」というのは、全体から読み取れる傾向かなとも思っています。
つまり、今この時点では「余計な縛りをとっぱらいたい」フェイズかと思うので、たとえば「○○さんは必ず出演する」とか、「男性声優の舞台だ」とか、「20代から40代の声優が出演する」とか、そういう固定観念については積極的に打ち砕いていく方向なのかな、ということです*1

鈴村さんのプレイヤー復帰(すなわち全日出演の回避)、釘宮理恵さんと高垣彩陽さんによる女性同士のマッチング、堀内賢雄さんのご出演などなど、すべてAD-LIVEの枠組みを広げるための選択に寄っていると思います*2

気が早い話ですが、2017年についてもこの傾向は継続すると思ってまして、熟練の女性声優さんの参加には期待がかかります。今の時点で候補になりそうなのは、くじらさんでしょうか……。朴ロ美(ロは王に路)さんだとちょっと若いぐらいかもしれません。



発表になったテーマ「会いたい人」についても、なかなか巧妙だなあと思っています。
これもまた昨年との対比になりますが、AD-LIVE2015のテーマ「ともだち」には、「恋愛の排除」が裏に含まれていそうだったからです。

女性キャストの初参加によって当然浮かび上がる男女の関係のうち、きわめてベタなひとつである恋愛関係。それを「ともだち」というテーマを掲げることで積極的に回避することに成功した2015年公演*3に続き、なるほど見事なテーマを出したものだと、拍手を惜しみません。

今回は男女ペアの公演がありませんので、舞台上で直接的に恋愛が起こることはありません。これなら「会いたい人」に最愛の人を想定できます。……プレイヤーの皆々様がそうするとは限りませんけども。

なお、テーマとAD-LIVEの「密室劇になりやすい」特性から考えると、悲劇になりやすい予感がしないでもありません。わかりやすいのは、「閉じ込められて、このままだと死んじゃう! そんなところに外部から電話*4が――」です。

ところで私は高垣彩陽さんの「自分とは断絶した人を想う」時の、輪郭のくっきりした芝居が大好きで大好きで、今回はテーマとの合わせ技で大注目しております。鈴村さんとの縁で言えば、SUPER SOUND THEATRE「Valkyrie 〜Story from RHINE GOLD〜」でのクケリ役はまさにそのタイプで、率直に言って最高でした。「ひたむき」とか「健気」とか……『機動戦士ガンダム00』のフェルト・グレイス役の時からすばらしかったですよね。今回の公演はどのように打ち出してくるのか、たいへん楽しみです。


えーと、とりあえず好き放題書きました。手短とはなんだったのか!

「AD-LIVEのRollとPlay 副読本:人狼バトル」「櫻井孝宏論」あたりを書きたくなりつつ、これからしばらく忙しいので、いつになるやら……
まずは来週末の満天ライブが楽しみです。

*1:あくまで今は、です。例えば今回は出演のない櫻井さんや岩田さんだってまた次公演に復帰してくる可能性は大いにあると思います

*2:特に年齢層の拡大は予想していたところでした。実は内心「森川智之さんか藤原啓治さんはあるかも……」と思っていたのですが、もっと熟練の方のご登場でした。事務所所長枠という読みは合っていたのですが、踏み込みが足りなかったです(笑)。

*3:この点については、梶さんの昼公演の設定がとても見事な捌きで、「梶裕貴論」があれば触れたいと思います

*4:外から突発的にコールがかかるという「割り込み」感、片方の台詞しか聞こえない特性などなど、AD-LIVE脚本を構成する上での要件を満たしたギミックです

AD-LIVE 2016開催によせて

とあるイベントに当選したので、急遽こんな文章を書くことにしました。


――「AD-LIVE」とは?
90分間、そのほぼすべてがアドリブ(即興)で紡がれる舞台スキーマ
決まっているのは、大枠となる世界観と最低限の脚本のみ。
役柄すら役者本人に委ねられており、事前の情報交換は一切なし!
舞台上で顔を合わせる時まで、お互いの役については何一つ知らない。

その場、その瞬間にしか生まれえない、予測不能の90分。
初対面のキャラクターたちが紡ぎだす、奇跡の物語をご覧あれ!



……いえ、即興で書いたものなので、
ちゃんとした解説は公式サイトやトレーラーをどうぞ。

www.youtube.com


上記の説明ではまあ、もちろんいくつか不足している情報があって、
それをざっと箇条書きしておく。

・出演者は「アドリブワード」を詰め込んだ「アドリブバッグ」を持っており、
 随時、任意のタイミングでここからワードを引き出して使用してよい。
 ただし、引き出したワードは必ず使用しなければならない。
 なお、アドリブワードは事前に一般から募集したものを使用する。
・出演者は声優を本業とする役者たちがメインである。
・BGMも即興でつけられる。
・プロデューサーは自身も声優であり、脚本・プレイヤーも務める鈴村健一

というところだろうか。


「AD-LIVE」について、正しく語ることと好ましく語ることはまったく別のことなので、一応、この記事の趣旨としては「好ましく語る」ことから始めたい。表現修正。いくら正しく情報を連ねても、その良さには迫れないので、ここでは情報の正しさより、その面白さに触れられるように語りたい。


さて、改めて、AD-LIVEとは何か?

もちろん、AD-LIVEは演劇であり、舞台劇である。舞台装置も組まれるし、照明も音響も整えられる。衣装もあればメイクもある。



では、AD-LIVEでは何ができるか?

役者は自分の、自分自身の望む役を演じることができる。
そして、望む結末へたどり着くことができる。
思う通りに演じ、言いたい言葉を叫び、伝えたい思いを尖らせることができる。

普段はシナリオに拘束され、あるいは自分自身の持ち味にも拘束されている役者たちが、「こういうのやりたかったんだよ!」を炸裂させることができる。
試したいことを試せるし、見せたいものを見せられる。
役柄と脚本の拘束から解き放たれ、どこまでも自分自身の限界に接近していける。



では、AD-LIVEは何ができないか?

まず、パンフレットが作れない。

何せ、それぞれの役名からして非公開なのだ。ある公演でなど、舞台上で名前を問われた役者がアドリブバッグからワードを引いてそれを名前にしてしまったぐらいである(会場中がどよめいた)。


次に、再演ができない。

実は究極、脚本がないだけなら――すべてが即興で組まれるというだけなら、舞台そのものを全部録画し、音声から起こせば同じ展開を再現することはできるのだ。
だが、AD-LIVEにおいては、そうはいかない。アドリブバッグが持つ偶然性というエッセンスが邪魔するからだ。バッグから「偶然」引いたワードを使う、という仕組みが、そのあとの再現可能性すべてをぶっ潰してしまう。

舞台の再演とは、必然のみで組まれた舞台だからこそできるもの。偶然をこれでもかと盛り込んでいくAD-LIVEでは絶対にできないものだ。

これはつまり、リハーサルができない、ということにも通じている。役者から見れば、リハーサルで使った役は、その段階で使用不可になってしまうのである(相手に種が割れてしまうので)。役者は舞台の上でようやく初めて、人前に役を触れさせることが叶うわけだ。


そして最後に、観客の存在なくして舞台を成立させることができない。

これは、ビジネスのことでもないし、リハーサルができない、という意味でもない。
AD-LIVEにおいては、「観客」が果たす役割が大きすぎることに由来する。

まず、舞台のある一面を支えきる土台のひとつ、膨大なアドリブワードは、一般からの応募によって成立する。その数は控えめに見積もっても数千から万のオーダーであり、率直にいって数の暴力の域である。
このアドリブワードの内容については主催者側から多少の方向付けがされるため、まったく無秩序なわけではないのだけれども、それにしても、多彩な言葉が膨大に注ぎ込まれることになる。

この膨大さはアドリブワードの偶然性を担保する上で非常に重要である。「ワードを狙って引くことができない」という状況に役者を追い込んでこそのAD-LIVEなのだから。



と、こう書いていくと、AD-LIVEは、役者に限りない自由を与える一方で、その環境の成立には猛烈な制約がかかるように見える。

嘘だ。

自由と制約――役者と環境に対置して語ったけれど、AD-LIVEは、役者に不自由を、環境に自由をももたらす。


――役者への不自由。
AD-LIVEに出演する役者は、「自分が持っているもの」「使えるもの」「隠せないもの」を見つめ直さざるをえなくなる。

例えば、2015年のAD-LIVEに女性キャストが参加するまで、AD-LIVEには純粋な女性キャラクターを演じられる役者はいなかった。それは、出演者がことごとく男性だったから――【ではなく】、AD-LIVEが「約束しておくこと」ができない舞台だから、という事情による。

芝居は嘘を含むもの――男性が女性を演じたってかまわない。ただし、嘘をその場の真とするには、「そうと見なす」という約束が必要だ。たとえば歌舞伎の女形のように、あるいは宝塚の男役のように。そして、AD-LIVEはそのように「約束事をくまなく敷き詰める」ことにおいてはとにかく弱い*1

誰一人として互いの思惑を知らない以上、「完璧に女性の格好をして現れ、女性としてふるまう男」を、女性として扱うのか男性として扱うのかは不定だし、約束の一端が崩れてしまえば、観客を騙しきることはできない。

ありあまる自由が与えられることによって、逆説的に、「どうしても自分の身体から引き離せない要素」を突き付けられる。これが役者にとっての「不自由」のひとつだ。


そしてもうひとつ……AD-LIVEに出演する役者は、孤独である。

誰一人として、自分がやろうとしていることを察してくれていない、というのは、普通の演劇ではありえないことだ。

これは実際に舞台に立った役者のほうが想像しやすいことだと思うけれども、役を演じている時、役者は「未来を察しているが知らない」というような、二重化した意識を持っている。例えば次に驚きの展開があるとして、役者はそれをあらかじめ察しているわけだが、役の上ではそれを知らない(ので心底から驚く)。

このような、「予定された驚き」というものを、AD-LIVEは基本的には内包しえない。事前の打ち合わせはできない、しないルールだ。

これは、役者にとってはとても孤独なことだ。自分が考えていること、やろうとしているプランは自分の中にしかなく、伝わってくれるかはわからない*2
みんなが寄ってたかって世界を堅固に構築する演劇とは、まったく様相の異なる世界だ。


――環境への自由。
AD-LIVEの舞台は、余韻を約束しない。
ハッピーエンドを約束しない。バッドエンドも約束しない。
喜劇も悲劇も約束しない。

AD-LIVEの舞台が提供するのは90分を持たせる枠組みであり、役者個々人のプランに滅私奉公しない。用意された小道具が適切に使われなくたって構わない。舞台上には存在していたのに見向きもされなかったものもあれば、まさかそんな、という使い方をされる道具があったってかまわない。

スタッフのちょっとした思いつきで小道具が増えたっていいし、逆に何かひとつがある公演からなくなっていたって大体の場合は問題ない。
本質はそこではないからだ。



こんなふうに、AD-LIVEはとても尖った舞台だ。ある方向は崩壊もかくやというほど開放しておきながら、その裏返しとして、獰猛なほどの制約を突き付けてくる。

AD-LIVE2015に先駆けて公開された総合プロデューサーのコメントには、「不自由の中でどれだけ自由に暴れられるのか?」という一言が含まれていた。

つまるところ、AD-LIVEはその即興性からくる一見のイメージとは裏腹に、自由な舞台などではまったくなく、むしろ不自由に立ち向かうことにそのエッセンスがある……ということなのだろう。



舞台に立っているその瞬間、役者たちは、猛烈な速度で過ぎ去る時間の中、己の肉体と頭脳、そしてそれをドライブするスキルと経験でもって、観客と共演者、何より己の限界に単身立ち向かっていくのですよ。

その有様はまさにプロフェッショナル、超一流の役者による、芝居・演技のインファイトであります。演劇を楽しみつつも、「○○さん頑張れ」という気持ちにすらなってしまうという点で、スポーツの試合に近いところもあると思う。


殴り合いにも似たスキルの応酬でありながら、根本的に話の流れが面白方向にわりと振れがちなところもポイント。

これだけ加速が極まった舞台だと、役柄と役者の人格がどうしても接近し、時には一瞬交代してしまうので(もちろんそれも面白さなのだけど)、笑かす方向に行ってしまったり、後味がいい方向に流れがちなんですよね。


そんなわけで、お気に入りの役者がいるのなら、ぜひAD-LIVEを観るとよいでしょう。お腹が重く感じるほど、ずっしり来る観劇体験間違いなし。しゃぶりつくし、食らいつくすのがおすすめです。


公式サイトはこちらから。



次回は(もしあれば)、AD-LIVEの脚本が備える構造と制約について――はことによると踏み込み過ぎるので……

AD-LIVEと人狼TRPG、偶然を物語化する機構、あたりでしょうか。

たぶん、人狼バトルやTRPG系映像コンテンツの隆盛と並べて語っておくのは悪くない筋だと思うので。

*1:AD-LIVEの名手・岩田光央氏はこの点に極めて自覚的だったはずである。この点を逆手にとった役作りをしてきた公演がある

*2:とはいえ彼らはプロの役者なので、観客からすると魔法なのかと驚くような緻密さで舞台上で意思疎通していたりするのだが……。時に仕込みかと疑われるほどのシンクロを見せてくれるので、それはそれで見どころである

Rejet岩崎大介の愛と暴力 ~ DIABOLIK LOVERSにおける救済の仕組み

このカテゴリをはてなブログにぶち込めることが嬉しくてならないな!


女性向けコンテンツメーカーRejet代表取締役にして、プロデューサー・作詞家の岩崎大介。通称は岩D。乙女の耳を制圧し続けているRejetコンテンツのほぼすべて*1の作詞を担当し、なんと作詞200曲記念のベスト盤「iD Best」2枚の発売も控えているという、知る人ぞ知るカリスマレジェンドである。


自らの作詞で作品の世界観を規定する方針は多くの作品で貫かれており、2014年にニコニコ生放送で行われた「24H RejetTV 夏祭り~アリノママデ▼*2~」内コーナー、「炎の真夜中挑戦者*3 ~乙女ゲームを2Hで作ろう」では、ほとんど何も決まっていないうちから「じゃあとりあえず作詞しようか」と発言し、コアな岩Dファンからの快哉を浴びた。

作詞においてはルビの多用、コーラス、台詞の導入など、超高密度に多重化された構造を構築することに定評がある。外国語の音での日本語詞とのダブらし、熟語に別熟語の読みを振るなど、そのテクニックは多彩かつ縦横無尽。2016年5月26日現在のTwitterトップのツイートにある「語りTooCoolしました」というコメントも通常運転。


そんな岩崎大介氏の作詞について、私は語りたいのである。


今回は一回目なので楽曲の各論は避けて、特にRejetの評価を高めた作品「DIABOLIK LOVERS」に明らかである「愛と暴力」の関係について書こうと思う。


「DIABOLIK LOVERS」における登場人物は、ほぼ漏れなくヴァンパイア、吸血鬼である。彼らは人間をなんとも思っておらず――あるいは餌としか思っておらず――、そもそも「心」や「愛」にきわめて鈍い。寿命から解き放たれているがゆえに、死を祝福ととらえ、「いつ死ぬか、いつ死ねるか、その時を待ってる」*4と語る。

つまるところ、彼らヴァンパイアは愛の様式どころか、根本的な価値観からして異なる存在として描かれているわけだ。

そんな彼らのテーマソングの一「真夜中の饗宴(MIDNIGHT PLEASURE)」のサビでは、〈愛〉と書いて《いたみ》と読ませる個所が出てくる。


そもそも岩崎大介の作詞においては、一種の暴力行為と愛を直結する表現は多かった。「DIABOLIK LOVERS」以前においては武器と隣接させた作例が多く、「TOKYOヤマノテBOYS」桐嶋伊織(CV.鈴木達央)の「LOVEマシンガン」における〈愛の弾丸(LOVE BULLET)〉、同作品・九条拓海(CV.遊佐浩二)の「今宵、この切っ先で」、Scared Rider Xechs*5「愛のZERO距離射撃 ‐loveshooooot!!!!!-」などの例が挙げられる。ほかにも〈愛の剣〉というフレーズは、TYBシリーズ「終わりなき愛の決闘者」、DIABOLIK LOVERSシリーズ「極限BLOOD」などに登場しており、一種の定型となっている。


とはいえ、「真夜中の饗宴」の作例はさらに進化、発展を遂げている。

彼らの行う吸血は明らかに暴力行為であり痛みが伴うものである――彼ら自身もそう歌い上げる――のに、それは「歌詞カードを読む者」、言い換えれば〈受け手〉にとっては「愛」である、という構造があるからだ。

音という聴覚情報においては《いたみ》、
目で見る視覚情報においては〈愛〉である。

この構造は、彼らが発した【情報】と受け手が読み取る【意味】の間にある大きなずれを浮き彫りにし、その反射として、ヴァンパイアによる吸血という暴力行為を愛情の発露として再配置してしまう。

「DIABOLIK LOVERS」においては求愛を振り替えて「吸愛」としたり、求婚を振り替えて「吸婚」とするという面白当て字があるのだけれど、これらはあくまでキャッチコピーとして存在するのみで、男性側から提示されることはない。

男性側である彼らは自らの行為が暴力であることを頑として譲らず、ただ女性側がそれを積極的に解釈することによって、その暴力行為が愛情として救済されるのである。一見の関係性とは裏腹に、「DIABOLIK LOVERS」は圧倒的に女性優位に組まれているのだ*6

その女性優位の構造はもちろん、女性向けコンテンツが宿命的に持っているものだろう。だから、それをもってして「岩崎大介の持つ世界観」としてしまうのは乱暴な分析だと思われる。

一方で、草食系男子という表現が浸透したことから推測できるように、一部の男性が己の欲望を一種の暴力と位置づけ、その発露を封じている実情もあるのではないだろうか。


だとすれば、岩崎大介が暴き出した「暴力を愛と読み替える」セオリーは、現実の男女に起きているすれ違いをも救うかもしれない。



――と、むやみやたらと話を大きくとっ散らかしたしたところで今回は終わり。


この構造から「愛ってしょせんは錯覚でしかないな」と思うか、
「愛に決まった形はなく、ふたりの間に見出すものなんだな」と思うか、それは各人の自由。

*1:もしかすると全曲

*2:▼はハートマーク

*3:「ミッドナイトチャレンジャー」と読む。真夜中と書いてミッドナイトと読むのは岩D定番

*4:DIABOLIK LOVERS ドS吸血CD MORE, BLOOD Vol. 09 逆巻シュウ 極限の愛 より

*5:なんと2016年夏にアニメ化が決まっている

*6:一見とは裏腹、とは書いたものの、ゲーム1作目のシナリオを通読すると、主人公優位であることはこれ以上ないほど明らかになる。以降も一貫してシリーズ内では主人公優位が貫かれる

想いをすり替えて言葉

喉、治りました。


物は言いよう、という言葉がある。
同じことを言うのでも言い方によっては大違い、という趣旨の言葉だけれども、この実例については、あんまりきかない。

自分はこの「言いよう」に関することばかり考えていて、言い換えばかりが得意になっている。


以下、ある日の実例。

友人が、「Twitterで○○という発言を見かけてすごく嫌な思いをした」という趣旨のことを言った。

○○に当てはまる文の形はこうだった。

「なんでAがBじゃないのかわからない」

実際はそうじゃないのだけれども、キャスティングのことだと思ってもらえれば大体の構造は合っている。なぜAを演じるのがBさんでないのかわからない、のような。

友人はその発言を見て、とてもとてもいやな気持ちになったそうだ。公式の采配に文句をつけるのか、とか、実際にAだったCに対して失礼だろう、とか、とてももやもやしたのだと。特に友人自身はCが好きで……ということではなく、それはあくまで礼儀としてだったけれども。

そのもやもやに対して、私は文の形を変換して示した。

「AがBなのを見たかった」

言った本人はそんな気持ちだと思うけど、と言ってみたところ、友人は目から鱗が落ちたような反応で、それならすごく納得できると言った。


実際のTwitterの発言主がどういう気分でその発言に至ったかは分からない――どころか、むしろ本当は間違いなく元文どおりの想いだったとは思うのだけれども、きれいな言葉にすり替えれば、まあ、すり替えたなりの演出にはなるという例。


想いをすり替えて言葉を選ぶ、そんな面倒なことはいちいちやってられないのが多くの場合の実情だと思うけれども、その効果のほどがもうちょっと知られてほしいなと思うので、この例を書き残しておく。